物事がうまくいったときほど、それを「やった」という感触がないということがあります。
たとえば、凄腕のコーチからコーチングのセッションを受けたとき、あまりにもあっさりと課題に対して答えが見つかってしまい、あっけにとられたというか、すっきりしたというかしないというか、何とも不思議な感覚になることがあります。
自分自身の準備もさることながら、セッションのプロセスに抵抗感がないから、そのような感覚になるのだと思います。また、相手との関係性が構築できていることも重要でしょう。これは精神的な感触の例ですね。
他にも、居合の据物斬りで、綺麗な切り口ですっぱり斬れたときは、「こんなにあっさり斬れるものなのか?」と思ってしまうほどに斬った感覚が殆どないものです。逆に切り口が汚くなるときや、斬れなかったときは、ガツンとした抵抗感を感じるものです。こちらは身体的な感触の例です。
要は、対象が精神であっても物質であっても、ある事柄について芳しい結果が得られた場合、そのプロセスには抵抗感がなく、結果が思わしくない場合、そのプロセスには強い抵抗感があるということのようです。
翻って、何かをやっている最中に、それがうまくいくかどうかは予め分かっているということにもなり得ると思います。
「やばいかなー、まずいなー。」と思いながらやっていることは大抵失敗しますが、これは事前に結果を予知していると言えるかと思います。
「え?ホントにこれでいいの?なんかすんなり進んでいるようだけど」といったときの方がむしろ、やり方がうまくハマっているのかもしれません。ただ、肌感覚として危機感を伴う場合は、実際は危険な事態が進行しているケースもありますね。
で、何が言いたいかというと、「やった感」を求めないこと。これが大切だと思うのです。筋肉痛になったから筋トレの成果が上がるわけではありませんし、長時間勉強したからといって、必ずしも成績が伸びるわけではないのと同じ事です。
結果がうまくいくことと、プロセスの「やった感」は関係ないのです。
現実世界で求められるのは常に結果であり、プロセスに於ける自己満足感ではないはずです。
これは人生のあらゆる局面で落とし穴となり得る事象だと思います。
特に天井のない領域を歩む者にとっては。
行為の感触に満足してしまっていませんか?
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪