「言語化できない体験は、理解できていないことなんだなぁ。」
と最近しみじみ思います。
自分が理解できていることであれば、
人にすっきり説明することができるはず。
それができないということは、
理解できていないか、まだ理解が浅いということ
なのだと思います。
武道家の方であれば誰もが知っている
「半身」という体の使い方があります。
半身(はんみ)とは / デジタル大辞泉
http://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E8%BA%AB
私は合氣道をやめて古武道に転向したのですが、
合氣道と古武道では、同じ半身でも捉え方が全然違うのです。
じゃあ、どう違うのか?
というと、それをある程度言葉で説明することは
できるのですが、本質を捉えられていない感が
拭えないのです。
How to は分かるけど、What とか Why が
分かっていない状態と言ったら伝わるでしょうか…?
トヨタ風に言うと、「なぜ」を3回繰り返したくらいで
詰まるというかw
しかしながら、言葉での説明能力がないから
言語化できないのではなくて、
本質にたどり着いていないから言語化できないのです。
例えば、長嶋茂雄は、バッティングの本質を
深く理解されていたことは間違いないと思われますが、
言語化する能力は極めて乏しかったと言っていいと思います。
バッティングの指導で、
”ビューと来たらバーンだ”
とか言われましても、ふつーは困るわけですがw、
彼からすれば、それがしっくりくる言葉での説明なのでしょう。
うちの稽古でそれやったら会員がいなくなると思いますけどねw
要は、ある体験に対して本人としてしっくりくる言葉を
あてがうことができているかどうかが、
理解の本質なのではないかと思うのです。
それ以上「なぜ?」という言葉で掘り下げることができない
レベルまで抽象化されたところにたどり着くこと。
それができたとき、言語による説明能力の高い人は、
言葉でそれを人に伝えることができるようになる
ということなのだと思います。
逆にしっくりくる言葉が見つかっていないときは、
体験を概念として整理できていない状態であるため、
経験したことを無意識的に使いこなすことができない
状態にあるのではないでしょうか。
私にとっての半身は、まさにその状態です。
物事の本質的な理解のためには、
体も脳も汗をかくことが必要なのでしょうね。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
ではでは、素敵な人生のひとときを♪