人から何かを学ぶ時の関係性について、その濃淡を意識することはとても大切です。
日頃から言葉遣いを大切にしていれば、自動的に考慮されていることではあるのですが、敢えて書いてみると、ざっとこんな関係性があると思います。
(1)上司と部下
(2)先生と生徒
(3)先輩と後輩
(4)講師と受講者
(5)師匠と弟子
(1)はちょっと特殊で、ほとんどの場合、自分の意思で選ぶことができません。出会った以上、どんな相手からでも学ぶべきことがあるはずとは思いつつ、辛い学びとなることも少なくないようです。その場合の対処法は別の機会に譲りますが、上司に恵まれたのであれば、それは最高の教育環境ともなるでしょう。社会に貢献しながら、賃金をもらいながら、経験を積ませてもらって、成長できるまたとない環境なので、必要に応じてパイプの太さを適当に保つ努力をすべきでしょう。
(2)は学校という環境でなければ比較的選ぶ自由があると思います。(5)とも密接に関連しますが、先生選びが非常に重要です。残念な先生に物事を教わると、下手をすると洗脳されかねない状況が世の中には多々存在します。かなり密度高くものを教わることができる関係ですが、その分危険性が伴うことを認識しておかねばなりません。
(3)も選べない関係ではありますが、その教えを受けるかどうか自体を選択する余地があるため、付き合いたくない相手であれば、スルーすることが比較的容易です。(1)同様、適宜関係性の密度調整を行いましょう。
(4)は非常にライトで、その時々に必要な知識の仕入先を選択するといった関係と言うことができます。つまらなければ、それまでですし、興味が続く間は付き合いを続けていけばよいというお互いにとって都合の良い関係です。
さて、(5)が今日の本題です。
「学ぶ」の語源は「真似る」だそうで、以前は「まねぶ」とも発音したそうです。師弟関係に於いては、弟子は師匠を真似ることから学びます。それは(1)~(4)の関係と異なり、まずは自分というものを空にして、師匠になりきることから始めるということです。自分がそれまでに身につけた考え方や価値基準はひとまず一切不要と認めること。両手にいっぱい荷物を抱えた状態で新たなものをつかむことはできませんからね。
現代社会に於いては自分の価値基準を持ち、主体的に情報を取捨選択することが必要不可欠ですが、師弟という関係性に於いて物事を学ぶ場合は、自分の判断基準を用いるというのは単に我を張る行為であって、邪魔にしかならないと私は思います。もし、同じ時・所で同じものを観ているのに、得ている感覚が師と異なるようでは、未だ真似る段階を過ぎていないということです。いわゆる守破離の守の段階です。
一度、虚心坦懐に言われたことを言われたとおりにやってみて、それでもし自分にどうしても合わないということであれば、我が道を往けばよいと思いますが、私の経験上、自分が選んだ師匠の指導で無駄なことなどただの1つもありませんでした。
自らの未熟な価値基準に照らして師の言葉を取捨選択しようなどというのは驕慢至極であり、そのような在り方では、せっかく教わったことがまずろくに身につきません。
耳に聴こえる言葉や目に見えるものだけでなく、非言語の言葉、不可視の情報まで全て受け容れる心構えでいて、ようやくスタートラインに立つことができるに過ぎません。
そういったレベル感で学ぶのでなければ、その関係を師弟関係とは呼べないと私は思います。この意味に於いて、師匠というものを持つことができるのは、受け容れる側たる弟子の在り方に依存するのかもしれません。昔から優れた人が後継者選びに苦労するのも分からないではない気がします。
そして、弟子の側に立つ者としては、自分の深部にまで情報を浸透させる相手であるからこそ、師匠選びは本当に重要ですね。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪