武道の稽古の基本は、型稽古です。
素振りなら素振り、受身なら受身を何千、何万回と繰り返す。五輪書に言う鍛錬のことです。
数をこなしているうちに自ずから無駄がなくなっていき、本質に到達するという面と、自ら工夫をするが故に紆余曲折を経て、本質を見出すに至るという両輪で上達していくものです。
漫然と数だけこなしていても進歩は遅いうえに、ある一定以上に進むことはありませんが、真剣にやっていれば、少ない試行回数でも速く上達していきます。
ダラダラ行う100回の素振りよりも、真剣に行う10回の素振りの方がよほど成果が上がります。
仏道、特に禅宗の修行はやはり型から入るそうです。ご飯の食べ方や扉の開け方など、日常の所作のひとつひとつに事細かな決まりがあって、最初はそれを徹底的に叩き込まれるそうです。
この段階で、型を覚えること、それをトレースすることだけにフォーカスしてしまうと、もうそこで修行の段階が止まってしまうのではないかと思います。
「なぜそのような型になっているのか?」「なぜそれが必要なのか?」なのかという問いを立てなければなりません。
「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ?」と思うのであれば、別の道に進むべきでしょうし、あるいは、「そのように決まっているから」「先生に言われたから」という理由で取り組むようであれば、やはりそこから先には進めないと思います。
そのようなスタンスでは、先人の思いに至ることがないからです。先人を超えることなど到底できません。
武道でも仏道でもそうですが、伝統的なものに形骸化が起きているのはこういった心の有り様によるのではないでしょうか。
日本には素晴らしい文化がたくさん残っているのに、残念ながらその多くが形骸化してしまっているのではないかと思います。
私は合氣道でそれを強く感じました。合氣道なんて現代生まれであるにも関わらず、早くも形骸化してしまっているのです。
武道の型は心身の使い方ややりとりの本質を学ぶため、禅宗の型はマインドフルネスあるいは悟りのためにあるということを忘れてしまっては、修行そのものに意味がなくなってしまいます。
そもそも、武道や仏道に入門するということは、不惜身命と心に決めていなければ本来できないことであるが故に形骸化など起きようがないものであったはずです。
それが現代の何事もゆるさが許容される風土に於いて、真剣ではないものにも門戸を開くことになった結果として、形骸化の憂き目を見るに至ったのではないでしょうか。
整った体系を持つものは、心がありさえすれば深く学べるはず。
そう信じて日本文化を温め直していきたいと思っております。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪