アメリカの心理学者ドン・クリフトンが発表した“バケツ理論”という人間関係の理論があります。 「すべての人間は大きな心のバケツをかかえている。 そこに、人からの称賛、肯定、認知、関心の水をためこみたいと思っている」というものです。
確かにそうだと思うのですが、バケツの中身をもう少し細かく見ていくと、大きなバケツの中にある特別なバケツがあることに気づきます。そのバケツが満たされていないと、他のバケツがどれだけ満たされていても、どうにも渇望感が消えないものです。さらに質が悪いことに、その特別なバケツには他のバケツと比べて大きな穴が開いている人が少なくないのです。
その特別なバケツとは、自分のパートナー用のバケツです。パートナーからの称賛、肯定、認知、関心を得たいという願望は、他の人からのそれとは別枠になっているのです。なんとなく伝わりますでしょうか。
周囲の人から愛されているなぁ、人間関係うまく行っているなぁ、といったように見える人でも、パートナー用のバケツが満たされていないと、本人的に納得いくメンタリティを得られていない状態となることが多いようです。特に女性に多いと思いますが、パートナー用のバケツだけ満たされていれば、他は限りなく空に近くてもOKという方もいらっしゃいます。私の友人には、男性でもそれに近い方がおられますが、それだけ、パートナー用のバケツは人間にとって重要ということなのでしょう。
では、どうしてパートナー用のバケツなんてものが存在するのかというと、パズルの欠けたピースを探すように、自分の足りないと感じている部分をパートナーで埋め合わせをしようとしてしまうところに、その根拠があると私は思っています。「自分は不完全だ」という認識は、謙虚さを醸成するためには必要だと思いますが、同時に渇望感を醸成してしまうという弊害が伴うように思われます。
おもいっきり視点を変えて観てみると、そもそも枠がなければ、渇望感なんて感じることがないのです。
根源的なお話になってしまいますが、人の命は手ですくった海水のようなもので、人の体は海水をすくっている手のようなものだと私は思っています。手を保持していてもいずれ海水は蒸発してなくなります。あるいは、何かの理由で手を離してしまったら、水はこぼれ落ちることになります。前者が老衰死、後者が事故死とでもイメージしてもらえれば分かりやすいでしょう。
すくわれた水はどのような形であれば、また海に返っていくものです。その時、自分は不完全なのではなく、そもそも完全であったことに気づくのだと思います。
とはいえ、最初からそういうものだと知っていれば、それを体得的に理解して、日常の感覚に応用していければいいのだと思います。そのために世の中ではいろんな方法を用意してくれていますね。瞑想を始めとする各種修行やディクシャなどのヒーリングが分かりやすい方法です。
どのような方法を取るにせよ、今自分が困っていることの枠を外すというのは、あらゆる問題に共通の解決法であると私は思います。
今、どんな枠に囚われていますか?
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪