「丁度僕らが雪の上を歩くと足跡がつくように、
僕の仕事もあれなんですよ。
完成しない。
ただ完成への無限の憧憬なんです。
完成とは作品のなかの僕がなくなることなんです。」
/棟方志功 『致知』 5月号より
これねー、若輩者の僕なんかが言うのはあれなんですけどね。
なんか分かるんです。
合氣道をやっているときにそう感じたことがありましてね。
特に何かをしようと思っていないんだけど、
ほいほい相手を投げることができる瞬間があったんですよ。
セラピーのセッションをさせていただいているときも
そのように感じることがあります。
自分はただのパイプになるというか、
メッセージを伝えるだけの媒体にすぎない状態になる。
そういう状態になった場合、とても良い結果が出るものです。
何はともあれ、考えていない。
棟方志功は何百回も下絵を書いて、
手が勝手に動くようになってから版を彫り始めたそうですが、
やはり、思考、すなわち、自分が残っているうちは、
棟方志功が言うところの「化け物」(何かすごいもの)が
出てこれない。
まさに禅ですね。
歴史に名を残している禅師の全員が口を揃えて
「日常が禅だ」という旨の言葉を残しています。
それがリアルだなと改めて思います。
行為になりきる。
それに没頭していて、思考しているとしても
自分が思考しているのではなく、自分が思考になっている。
そんな状態が本当に気持ちいい。
自分がそのゾーンに入れる仕事こそ、
天職と呼べるのかもしれません。
禅的に行った仕事というのは、
間違いなく素晴らしいアウトプットをしていますし、
それだけに人から喜ばれます。
改めて日常で禅を意識していきたいと思います。
ちなみに、ここ数ヶ月の間に再び読むようになった
『致知』ですが、本当に素晴らしい雑誌です。
キッカケを与えてくれた友人に
心から御礼を申し上げたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
ではでは、素敵な人生のひとときを♪