時々、「瞑想って、どんな効果があるんですか?」とか「それをやるとどうなるんですか?」といった質問をいただくことがあります。
「言葉で説明するの無理だし、頭で分かっても意味ないから、兎にも角にもやってみれ。」と言いたいところですが、まぁ、そうもいかず、筆舌を尽くして説明するのですが、やはり、不毛そのものですね。
「百聞は一見に如かず」をもじって「百見は一験に如かず」なんて言う人が最近はちらほらいらっしゃいますが、そもそも体験を通してしか学ぶことができないものを言葉で説明することができないというのは、多くの人が感覚として理解してはいるものの、なぜなんでしょうね?
歴史的に見て、その手の分かりにくいものの代表格といえば、やはり、禅でしょう。
『碧眼録』、『正法眼蔵』、『臨済録』、『六祖壇経』、『無門関』・・・と、優れた古典が沢山ありますが、これらを全て読破したとしても、はたまた大蔵経を全て暗唱できるようになったとしても、それで禅定を得られるのか、得られているのかというと、そうではないと思うのです。
東洋のスピリチュアリティに於いては、物事の必要条件は教えてくれますが、十分条件を教えてくれることはまずありません。
禅の修行の階梯を記した「十牛図」をご存知の方もおられると思います。あれは、「こういう状態になったら、この段階ですよ。」というインディケータとしての役割は果たしているものの、マニュアルやノウハウ本ではないため、「こうすれば、この段階に至ることができますよ。」という方法論については書かれていません。このあたりが初心者を篩にかける高いハードルになっているのかもしれませんね。
一方で、西洋的なアプローチでは、どちらかというと十分条件を追求しようという姿勢が強いという印象があります。
チャネリングなどを調べると、ほぼ、やり方のことしか書かれていません。神道で言うところの審神などにはあまり言及せず、結果のみを得ようとするノウハウ&ご利益主義に終始している感があります。批判する趣旨で書いているわけではありませんが、まぁ、危なっかしいなと思います。どこにつながっちゃってるのかも分からず、「大天使ミカエルが・・・!」「ガブリエルが・・・!」などとのたまわす方々を拝見すると、危険性を感じてしまうのは私だけでしょうか。もちろん、本物の実力者もいらっしゃるのでしょうけれど。
どちらが優れているという議論は避けたいと思いますが、個人的には東洋的なアプローチにより奥深いものを感じます。合理主義的に言葉であらゆる物事を切り取って説明することの無意味さに私は耐えられないというかw 言葉は切り分ける機能しか持っていませんから、瞑想というもの自体と相性が悪いんでしょうね。瞑想は分離というよりは統合のベクトルを持っていますからね。
体験学習的なものは、ばらばらに存在する経験の断片を統合していくプロセスであるために、もともと1つだったものを個々に切り分けようとする言葉とは相容れないということになるのではないでしょうか。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪