”智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”とは、『草枕』の冒頭としてお馴染みのフレーズかと思いますが、その後のフレーズ
”住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。”
これを「住処」ではなく、「素の自分であること」に読み換えると、あぁ、なるほどなという感じになりませんか?
最近流行りの超訳をしてみると、「能ある鷹は爪を隠せとか、目線合わせろとか何なの。感情の趣くままに生きてるとえらいことになるし、精神的に負担になる奴とかホントにイヤ。よく自分の意見を持てとか言うけど、意見をしっかり持ってると返って周囲の調整がかったるいじゃん。ホント色々めんどくせーよ、マジで。」と、まぁ、こんな感じでしょうか(笑)
実際、ある一面では世の中そんなものだと思うのですが、これに対処していくプロセスで、過剰適応してみたり、反発をあらわにしてみたり、鬱になったり、精神障害を患ってみたり、果ては誰かを殺したり、自殺してみたりと、みなさんあれこれ悩むわけです。
人とのコミュニケーションに悩みを抱えている人の場合、比較的多いのは、自分の考えにハマり込んでいるケースです。自分のことはさておき、相手がどう思っているか、どう感じているかということに焦点を置くことができないのです。相手よりも自分がどう思っているか、どう感じているかを基準にしたコミュニケーションを取るので、極端に自尊心が高い人や傲慢な人でない限り、逆に人の反応を邪推したり、分からなかったりすることで劣等感や被害妄想、不安感に苛まれがちになります。
これって、すごく簡単に言ってしまうと、自分自身でいられない、いてはならないという状態になってしまっているということだと思います。自分視点しか持っていないということから考えると、ちょっと逆説的に聞こえるかもしれませんが。
その原因がどこにあるかというと、経験上、親の育て方の問題であることが多いと思います。その昔、教育ママなどと言われた躾に厳しい親などは分かりやすい例ですね。
先日観たインド映画「きっと、うまくいく」の学長やファルハーンの父親のように子供の進路を決めてしまう、あるいは、決めようとする親などもそれに該当しますね。
幼少期、そういった親に抵抗できないと悟った時、歪みが生まれて、ペルソナ(心理学で、周囲に適応する過程で形成される自己の外的側面のこと)ができるのです。
なんとも切ない話で、世の中そんなものだと思いますが、せっかくだったら、そんなもんだと悟った結果、”詩が生れて、画が出来る”方向を探ってみたらいいんじゃないかって思います。
素の自分でいることに、ストレス感じていませんか?
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪