「人は独りでは生きていけない」
今日は、陳腐な言葉をちょっと違った切り口から。
意味ないんです。たった独りで生きていても。人がもし本当に独りで生きていたとしたら、それは、2chの住人の方々が言う「うん○製造マシーン」に過ぎません。肉体の使用期限が切れるまでそのメンテナンスをし続けるだけの人生のどこに意味があるのでしょうか。
70億人もの人々がひしめくこの星で1人の人間として生まれてから死ぬまでに、一体何人の人を理解することができ、また、何人の人から理解してもらうことができるでしょうか。100万人に1人だとして、7,000人。いやいや、そんなに多くないですね。人間がリアルな関係を維持することができる限界を示したいわゆる「150人の法則」に従うとしたら、4,667万人に1人と互いに理解し合えるかどうかといったところが現代人のスタンダードとなるのでしょう。
そんな稀有な御縁の方々と一緒に時を過ごすことで、人は、人を理解し、人に理解されるという学びをするためにこの地に存在しているのだと私は思います。
昨日書いたような厳しいサバイバル的な環境設定がこの星でなされているのは、誰が設定したのかはさておき、ハードな環境であるがゆえに肉体の耐用年数が短くなり、短い人生のなかでより濃い学びをしなくてはならないというゲームの難易度を高くするためのルール設定なんじゃないかと思ったりもします。簡単にクリアできるゲームがつまらないですからね。
もし、肉体の維持のために何も煩わされることがなければ、耐用年数も長くなるでしょうから生まれてから死ぬまでの時間にも余裕ができるでしょうし、食料問題もエネルギー問題も起きないわけで、人と人との争いなんていうものは、ぐっと少なくなって、みんながいつでも和気あいあいと平和な世の中がすぐに実現されてしまうのではないでしょうか。
ひるがえって、私たちは、いつでもサバイバルを強いられる厳しい環境下で、命がけで自分以外の誰かを理解しようとするところに、人間の真実の姿を見出そうとしているのかもしれません。
大火傷を負ったコンスタンチン君を当時国交のなかったロシアから日本に連れてきて医療行為を施した救出劇や、つい先日の震災での自衛隊や消防の方々による数々の救命シーンなど、人命がかかった現場では、人が自らの命を顧みないという常軌を逸した判断と相手がどんな人かも知らないのに必死で命を助けるという通常の思考をはるかに超越した理解を誰もが目の当たりにしています。
その姿に感動するのはなぜでしょうか?
死を前にした人間からは、リアルな生の輝きを見て取れるからかもしれませんね。普段の凡庸な暮らしのなかでは色褪せて視えない命の姿。
何も本当に人が命を落とすような現場でなければ、それが視えないわけではありません。ある種の芸術作品や風景に人は心を動かされます。自然は命そのものですから、例としては分かりやすいと思うのですが、絵画や音楽は、物理的に見て物体や振動でしかないはずです。そんなものに感動を覚えるというのは、作品に作者の命が注ぎ込まれているからではないでしょうか。
かく言う私も白隠禅師晩年の達磨大師の絵には鬼気迫るものを感じ、今でもはっきりとその姿を心に描くことができます。ちなみに、「鬼気迫る」という表現は、生物ではないものが生きているかのような気を発しているところから生まれた言葉なのではないかと私は思っています。
そんな風にして、手を変え品を変え、人は命の輝きを表現したり、表現されたりしたい、あるいは、そうせずにはおれない存在なのだと思います。
そして、表現するからには、それを受け取ってくれる誰かが必要であり、表現されたものを感じたいのであれば、当然表現してくれる誰かが必要になります。
この表現の連鎖の中にしか人はいられないのでしょう。命の表現の受け渡しから完全に切り離されて存在することには耐えられないのではないでしょうか。
だから、人は独りでは生きいけないのです。
あなたは、命を表現していますか?
それを受け取ってくれる人がいますか?
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪