今日は、とあるセラピストさんへのセッション後に
母の日ということで母を伴って
東京国立博物館で開催中の大神社展へ。
内容は個人的には物足らず、ラファエロ展に期待。。。
>Nさん
今日は誠にありがとうございました。
これからの事業展開、楽しんでくださいね!
さて、Nさんにセッションをさせていただいた後、
こんな質問をいただきました。
「セラピストにとって
言葉とはどのようなものだと
Rさんは思いますか?」
例によって、直感で何でも答えてしまう私は、
口をついて出る言葉をつらつらと話し始めたのですが、
「この辺りを手といいます。
この辺からは腕といいますね。
厳密に分けることは難しいですよね。
でも、人とコミュニケーションするにあたり、
便宜上ラベルをつけておかないと
話ができないから、
敢えて名前をつけることで
本来1つであるものを切り分けるのが
言葉だと思います。」
みたいなことを言いました。
クライアントさんがキョトーンモードに
入られたので、仕切り直し(汗)
「ものすごーく広大な人の意識を
極々一部にぐーっとフォーカスを
絞ってもらうために使うのが
言葉なんですよ。」
とお伝えしたらピントきたようで、
響きモードに入っておられました。
でも、これって言葉で伝えていることながら、
言葉に頼ってないんですよね。。。
ビジョンを言葉にしているだけ。
元が言葉じゃないのです。
というよりは、元が論理じゃない。
論理は後付け。
よくよく考えたらみんなそう。
万有引力もニュートンが落ちたりんごに
論理を後付けしました。
平成進化論の鮒谷さんが仰るように
世に成功者と言われる人をたくさん研究したものの、
みんな論理は後付け。
説明が先にあるんじゃなくて、
後からしか説明できません。
当たり前ですねw
法則とか運命みたいなものが先天的に存在して、
それを体験した人が、経験に言葉をくっつけてみたら
そうなったというだけのこと。
切り分けるはたらきしか持たない言葉を
どれだけ貼り付けてみても、元の体験を
復元することはどうしてもできない。
その意味で言葉にしてしまったら
つまらいものがたくさんあるのでしょうね。
武道の技も言葉で伝えられないから
稽古するのですし、伝書を読んでも
それだけでは、その技を再現することなど
到底叶いませんから。
言葉に表せない世界にしか価値のあるものはないと
私は思います。
言葉の限界、感じてますか?
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたに素敵な人生のひとときが訪れますように♪