都市生活者にとっての不可避のストレス
日々を街中で暮らしている人間には気がつかないかもしれない。
多くの人が住み暮らす街は、作為的な情報に溢れている。
日常に溢れかえっているものだから意識的にそれを認識することがないと思うが、実はただ街を歩くだけで非常に多くの作為的なインプットにさらされている。
そのような状況は、実は極めて強いストレス環境下に自分をさらしていることに等しいと思う。
情報による汚濁
人間の脳は、目に映ったものの意識的に認識していない情報まで記録していると言われている。
そのデータが脳の記憶領域のどこかに保存されていて、それをそのまま延々と放置し続けるしかないのだ。
ガラクタしか保存されていない引き出しから有用なものを取り出そうとしても難しい。
自分の生きる道が定まるまでは様々な情報に触れることが必要であろう。
しかし、自分の進むべき方向性が定まっている人間にとって、情報的にうるさい環境に身を置くのは極めて有害であると思う。
いらないものばかりを脳に詰め込むことになるし、欲しくもない刺激が多すぎるからだ。
集中力は、自分の注意を取るものが多い状況下では発揮されない。
なるべく注意散漫になるようなものを排除する必要があるのだ。
そう考えると、街中に居を構えること自体が、自分のメンタルあるいはブレインリソースを無駄遣いしていることにならないだろうか。
自然が多く閑静な住環境に移ってから、はっきりとそれが認識できた。
生産的思考停止
人間も人が作ったものだから人工物とも言えるのだが、自然の中で生きている生き物であるが故に天然物と言って良いだろう。
人工物は、そこに人間の意図が込められており、その意図に従った作用を人間に及ぼす。
自然には、生命を生かす意図しかないように感じる。
それゆえに自然を眺めても自らを害するような影響は全く受けない。
それどころか本来の自分を思い出させてくれるかのようだ。
自然の中に身を置いて考え事を止めると、それに気がつく。
翻って、都市生活者は日々なんと無駄なことに自分のパフォーマンスを阻害されていることか。
コロナの影響もあってか2拠点生活者が増えているのもこのような背景があるようにも思う。
原点回帰
地球環境や社会の状況自分の進み暮らしている物事が何によって支えられているのかそういったことを見回したときに、あまりにも不自然なものが多すぎるように思わないだろうか。
様々な環境破壊が喧伝されて久しいが、人はマッチポンプを続けているようにしか見えない。
利便性や我欲を経済によって支援するのではなく、自然がそもそも持っている命を生かす意図を知恵を持って受け取ったらどうなのだろうか。
自然を支配しようとして生命を破壊するような意識構造ではなく、自然に従い恩恵を享受する考え方によって経済を再構築することが、人が自然と纏ろって末永くこの星の上で生きていくことができる唯一の道な気がする。
数多くの分断が社会に生み出され続けているが、根本的な分断は土との生活の分離。
これを先ず以て解消しなければならない。今後数年をかけて都市生活者が大地とつながり直すことができるスキームを構築していくつもりだ。