中国の常識の多くはアメリカでは非常識だし、アメリカの常識の多くはインドでは非常識だ。
またインドの常識の多くは日本では非常識だし、日本の常識の多くはアフリカでは非常識だ。
それぞれ何億人もの人々が、何百年何千年にわたって積み上げてきた民族の価値観の総計というべきものが、国境を越えるだけでいとも簡単に否定されてしまう。
この現実を人はさも当たり前のように錯覚し、単なる地域性・多様性として片づけてしまうが、はたしてそうなのだろうか。
国がかわる毎に常識が違うということは、常識というものはかなり完成度の低いものであり間違いを多く含んだものであるということ、次に正しさはそれを信ずる人の多寡とは全く無関係であるということ、さらには人類は数多くの不完全な概念を作り出し今なおそれを後生大事に踏襲しているということ、これらにもし気がつく人がいたらたいしたものである。
親や兄弟、恩師や友達が言ってたから、有名な大学教授や評論家が書いてたから、伝統があるから、大企業だから、大教団だから、国会や多数決で決まったことだから・・・・はたしてそれは正しいのか。
お釈迦様はおっしゃった。
「多くの人が信じているから、伝統があるから、格式があるから、権威があるから、聖人や賢人が言ったから、教典に書いてあるからといって物事を信じてはならない。自分の理性と意識によって確認され、心から信ずることができたことだけを、自身の信念とし、これに基づいて行動せよ」と。
これを自灯明(自法灯)という。
せっかく学んだことも、周りの人には理解してもらえず、孤立無縁で少数派だから、やっぱり間違っているのではないかと、すぐにフラつきコロコロかわる方。
そろそろご自身の自灯明に煌々たるあかりをともし、その光でこの世の真偽をとくと検証されてみてはいかがでしょうか。