釈迦は人生は一切皆苦であるとされ、苦というものを生老病死の四苦に、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五蘊盛苦の四苦を足した八苦に分類された。
そして苦の原因は生まれてくることそれ自体にあり、生まれることは生やもろもろへの執着によってもたらされ、執着は欲や感情によって、欲や感情は感覚によって、感覚は心によって生ずる、と見極められた。
これを十二縁起(因縁)といい、加えて、苦・集・滅・道の四つの真理(四聖諦)を学ぶことにより無知無明を解消し、八正道を行うことにより、心を清らかに静寂なる状態に保つことが大切だと説かれた。
一方キリストは、肉体の意識というものが、人間にとって最もやっかいなものであり、これがほんとのサタンであり、これに対抗するには、心を愛で満たし、思いやりややさしさ、奉仕や赦しを実践することが大切であると説かれた。
そして悩み苦しみ病み貧する人たちに対して、最も困難な試練に直面しているあなた方こそが、実は天国への最短距離にいるのだと諭された。
釈迦は、どちらかというと苦というものをネガティブな視点から把握され、この根源をつきとめ徹見することによって苦の消滅を、キリストは、苦をどちらかといえばポジティブな視点で愛の力で包み込むことにより、マイナスをプラスに転換しようとなされた。
どちらも見事に神の宿題、人間は何のために生まれてきたか、また、どう生きればよいかに答えを出されたが、皆さんは、ご自分の人生に対してどのような答えを見い出されたのであろうか。
それとも昔の話だからとうに忘れてしまって“そんなの聞いてないよ”と突っ張ってみますか。
お空の上には、おそらく、あなたの証文がキッチリと保管されていると思いますが、何でしたらFAXでもしてもらって下さい。
右を見ても左を見ても、一見ほとんど愛がないようなこの地球という星で、愛とは反対のことを永年十二分に体験された皆さんが、もう間もなく気づきから気づきを促す側にとらばーゆされ、宿題をきっちりとはたされているビジョンは、天上界の方々の親の欲目なんでしょうか。
老子はこう言われた。
上士、道を聞けば、勤めてこれを行う。
中士、道を聞けば、在るがごとし亡きがごとし。
下士、道を聞けば、大いに之を笑う、笑わざれば以て道と為すに足らず。
みなさんはこれまでに何度も道を聞かれたわけですから、努めてこれを行う時が来ているのではないでしょうか。
いかがでしょう。
釈迦が悟られた時、悟ったことを伝えるのがいかに難しいかに気づかれ、“どうか私を天上界にお戻し下さい”と言われたといいます。
この時、大毘廬舎那仏が現れて、あなたの悟られたことを、どうか人々にお拡め下さいと頭を下げられたそうです。
気づくのも難しいが、気づきを拡げるのもこれまた難しい。
だが難しければ難しいほど、これを克服した喜びもまた大きいし、あなたの天上界での褒賞は、想像をはるかに超えたものとなる。
“ものはついで”、“行きがけの駄賃”とはよく言ったもので、難しいついでに二聖人の足跡をほんの一部だけでも追体験するのも、案外イカした発想だとは思いませんか。
決してイカれた発想ではありません。
大したことはないんです、ほんの軽い気持ちでいいんです。
仏壇仏具に線香の3点セットや、難解でわけのわからないぶ厚い教義もヘタクレも、ほとんど必要ありません。
もうすでに、外に神を求めた時代から、裡に神を求める時代に入ってます。
だから、軽いノリがこれからの時代には一番あってます。
“面白くて、おかしくて、なおかつチョッピリためになる”
皆さんのこんな話を、多くの人が待っておられます。
天上界宿題管理委員会一同