○○さま
私は、上からのリクエストがない限り、人間には滅多に噛み付きませんからご心配なく。
どうぞ、気楽に読み流して下さい。
そして、明日になったら全部忘れていただいて結構です。
ただ、あなたの後ろには大勢の方が数珠繋ぎに控えていらして、あなたが本格的に動き出されるのを今か今かと待っておられるようなので、ついついおせっかいをしてしまったようです。
私のなくて七癖です。
物はついでですから、もう一言申し述べてみます。
昔、誰かさんの歌の文句に、苦しみの数だけやさしくなれるから、というのがありましたが、これはまさしく真理の言葉です。
人は誰しも、自分が病気をして初めて病人の苦しみが真に理解でき、病人にやさしくなれます。
同じように傷つけられて初めてその痛みや、むやみに他人を傷つけてはならないということを学習します。
また大切な人を誰かに殺されて初めて殺された側の深い悲しみや、殺すことの罪深さを思い知ります。
こうした道理は、何も神の分身である人間だけに当てはまるものではなく、人間の親である神にも共通した普遍的な真理です。
そして、もし神がこの宇宙で最も慈悲深く最高の叡智を備えた存在だとしたら、神はその昔、宇宙一病気をした人であり、宇宙一誰かを傷つけそして傷つけられた人であり、宇宙一殺し逆に殺された人であり、宇宙一騙しかつまた騙された人であり、宇宙一恨みそして恨まれた人だ、ということになります。
神はかつて、大悪人から大聖人まで、ありとあらゆる体験を繰り返されてきたからこそ、今宇宙一やさしくて思いやりがあり、また様々なことに積極的に勇猛果敢に挑戦され数多くの失敗を重ねてこられたからこそ、今全知全能の神と呼ばれています。
この宇宙は、創造と維持と破壊を幾度となく繰り返し、一時も休まず日々刻々と変化し続けていますが、何故刻々と変化し続けているのかといえば、変化の中にこそ進化が存在するからです。
また何故進化し続ける必要性があるかといえば、進化する余地がまだまだ沢山存在し、神が進化に対してどん欲だからです。
そして、神は愛そのものですが、神の愛の中には、愛とは反対のものが常に存在するからこそ変化が起こり、その変化のプロセスの中で神の愛は日々進化しています。
熱心な宗教家にシバかれるかもしれないので、あまり大きな声では言えませんが、神が純粋な愛と光だというのは厳密に言うと正しくありません。
神はこの世の全てですから、神は光でもあり闇でもあるのです。
光の中に闇があるからこそ光は更にその光を増し、闇は光を増すための必要不可欠な要素です。
その昔伏儀は、陰極まれば陽、陽極まれば陰、といい、太極図をあらわしましたが、太極図は宇宙の躍動そのものを非常にうまく表現しています。
これとは別に、静の中に動があり、動の中に静がある、という言い方も的を得ています。
今は13000年続いた闇の時代の最終局面ですが、多くの方が闇の中で光を追い求めて悪戦苦闘してきました。
そして闇の中で光を追い求めるプロセスの中に、今回も多くの進化があり、正確に言えばそれは今もまだ続いています。
この地球では、何故他の星の魂よりも多くの自由が与えられてきたかと言えば、愛とは反対のことを数多く体験し、その過程で自らの殻を打ち破って意識を広げることに果敢に挑戦し、かつまた未知や進化の種を模索して欲しい、という神の願いによるものです。
噛み砕いて言うと、愛とは反対のことを沢山やってもらうか、逆に困難な環境下で徹底的に愛を実践してもらうか、のどちらかをやってもらって、もって愛をより深くお勉強していただきたい、ということでした。
この地球における自由は、自由そのものを楽しんでノホホンとしてもらうためではなく、お互いがお互いにより多くの刺激や影響を与えながら、短期間に集中的に様々な体験を重ねていただき、各自に目一杯進化してもらうためのものだったのです。
ところが、この辺のところを勘違いした方が沢山出てきたため、多くの方が中途半端なままで、あまりお勉強が進みませんでした。
どのような勘違いかと言えば、人に迷惑をかけない範囲で自分の好きなことをやっていればよいのだ、とか、動の中の静をめざし、静の中で安住することこそが究極の目標である、といった仙人を志向したような考え方です。
この他、人間は生きているだけで光り輝いているから、普通に生きてさえいればそれでよい、あるいは何事も穏やかに、右でもない左でもない、かといって何ものでもない中道がよい、といったわけのわからん考え方などもそうです。
これらの全てが間違いだ、というわけではありませんが、禅の十牛図に例えれば、これではいかように頑張っても、道半ばの第五番目の「牧牛」の段階か、せいぜいその次の段階で止まってしまいます。
こうなった背景には、人から覚者と呼ばれる方のほとんどが、動の中の静に安住するだけにとどまり、次に静の中の動を見極め、これを何回も拡大しながら繰り返すことによって始めてゴールに到達できるのだということを見抜けず、神の真の意図を皆さんに正確に伝えきれなかったことも大きく影響しています。
言い方を変えると、大きな動の中にこそ大きな静があることがわからずに、小さな動の中の小さな静を追い求めることに終始し、けつたいなレトリック遊びに溺れてしまう方が多かったわけです。
あなたが今注目されているラムサはかつて、大きな動の中にこそ大きな静があることに気づき、次に静の中の動を見極め、めでたく大天使を卒業して新長老になりましたが、その後に続くものがいませんでした。
残存する地球の歴史の中で有名な何人かは、元々長老でした。
ここでお断りしておきますが、私はラムサ本を薦めているわけではありません。
彼の覚醒は本物ですが、彼の本には多分にウソが混ざっているからです。
まあ、彼の今の仕事はウソをつくことですから致し方ありませんが、ラムサ本ですらそうだとするとあとはおして知るべしで、どなた様の著作であろうがウソや間違いがどれもこれも沢山混ざっています。
それを見抜くのも皆さんのテストですから、私はとやかく申しません。
さてその昔、クリシュナは戦いを尻込みするアルジュナに、自分の殻を打ち破り勇気を奮って戦え、と諭しました。
これはクリシュナが戦争屋だからそう言ったわけでは決してありません。
逆にクリシュナこそが、他の誰よりも平和を愛したからこそアルジュナに戦いを促したのです。
地球での愛の実践は自他のエゴとの壮絶な戦いとなることが往々にしてあります。
今の地球の現状では、自他のエゴとの摩擦を避けて通るわけにはいきません。
また愛の実践は人は殺さなくてもエゴを殺さなければならないことがよくあります。
愛の実践をしたものだけが、イヤというほどそのことがわかります。
恥を覚悟でメルマガを始められたそうですが、大変結構なご決断だと思います。
恥とは人目をはばかっての方便であり、その実はようやくエゴとの戦いを決心されたのだろうと思ってお返事を書いたのですが、私の勘違いだったのでしょうか・・・・・。
余計ついでに申し上げるなら、どうせ恥をかくのならドーンと大きな恥をかき、かつまた毎日せっせとチャンバラをし、この地球にどでかい足跡を残して下さい。
おせっかいはこれ位にしておきますが、あなたご自身と、あなたの後ろに控えておられる多くの方のためにも、どうか頑張って下さい。
陰ながら応援しております。
D
私は小さい頃から勉強が大嫌いで遊んでばかりいたため文章力に乏しく、頭で考えていることをうまく表現できない欠点を持っています。
ですから、何を書いてもつたない文章となり、よく自分が言いたいことを言いそびれてしまいます。
後から考えて「しまった」と思うことがよくありますが、今回も追伸を書くはめになってしまいました。
でも、あなたなら一を聞いて十を知る如く、きっと理解されることだろうから、蛇足となるかも知れませんが、今少々お付き合い下さい。
その昔、キリストは「右のほほをぶたれたら、左のほほも差し出しなさい」と言い、釈迦は今しがた災害にあったばかりの村を目の当たりにして、弟子達に対して「あそこにいって托鉢をして来なさい」とけしかけました。
いずれも人類の常識とはかなりかけ離れた過激な発言ですが、お二方は、大した悪いこともしなければ、かといって善いこともしようとしない事なかれ主義の小市民的な考え方に活を入れ、もっと積極的に深いレベルから愛を実践しなければいけませんよ、ということを暗に諭されたのだと思います。
先日の、クリシュナがアルジュナに戦いを促した話も、これと全く同じです。
そして、こうした天上界主導による「けしかけ」は、今現在でも引き続き行われており、見えないクリシュナ、すなわち天上界の大天使たちは、地上のアルジュナ、すなわち人類に対して、911のテロを引き起こしてイラク戦を誘導し見え見えの茶番を繰りひろげたり、あるいは映画マトリックスやロードオブザリングの製作者に対してひそかにヒントを与えたりして、人類に対し「今こそ愛の剣を取って戦え」と盛んに煽っています。
でも現状はご存知の通り、彼らの意図どおりには山は動いていません。
これがゆえにNESARAは延び延びとなり、神の経綸は大幅に遅れています。
詳しくはHPに書いているとおりです。
この世のカラクリを把握するためには、人間の視点を一旦放棄して、神の視点から全体像を俯瞰してみる発想が大事です。
そういう意味では○○はかなりいい線をいっています。
そしてもし、この宇宙の実在が愛だけである、ということが真に理解できれば、後はドミノ倒しのように、この地球で生起する全ての事象が愛をお勉強するためのナマの教材にしかすぎない、ということもよく理解できるようになります。
そして、自分がこの世に生を受けたのは、地球で繰りひろげられているゲームを傍観したり忌避したり解説するためではなく、積極的にゲームに参加するためであり、様々な困難な中で愛を実践することこそがゲームの肝腎要なところだ、ということがよくわかるようになります。
禅の十牛図はこの辺のところを非常にうまく表現しています。
先日申し上げた、「大きな動」とは、常に自分の限界に挑戦し、数多くの他者との摩擦を体験し、なおかつ沢山の愛を実践する生き方のことであり、「小さな動」とは、この地球で積極的に生きることを放棄してただ漫然と生きたり戦線離脱したりして、またこれといった大した愛も表現しない消極的な生き方のことをさしています。
毎日頭の中だけでアレコレ考えたり、ウソと間違いだらけの真理本をせっせと読んだりして道草することも人生のある時期必要ですが、それよりも積極的に愛を実践することこそが、神の意向に沿った本来人間が歩むべき道であり、全ては愛だけでありその他のものはみな引っ掛けにしか過ぎない、ということを私はお伝えしたかったのでした。
まあ、釈迦に説法かもしれませんが・・・・・。
以上です。
D