前略
みなさま お経の文字は、目から離しすぎても読めませんし、近すぎても読めません。
適当な距離が必要です。
ここでの距離とは時節のことであり、皆さんの人生において、今がまさにそのタイミングであるということです。
また、朝から晩まで何回お経を読んだとしても、書いてあることを深く理解できなければ、本当に理解したことにはなりません。
ここでの理解とは、書いてあることと自分の所業とを比較して、自分の誤りを見つけ出すことです。
そして、いくら頭の中で理解しても、理解したことを日常生活の中で実践できなければ、真に理解したことにはなりません。
多くの方は、何が正しくて、 何が誤りか、心の奥底では知っています。
心の奥底では知っているのですが、エゴに惑わされ、ついつい誤った方を選択しているのが現状です。
そして、エゴが考え付いた誤魔化しや言い訳の中に、取って付けたような正当性を見出し、エゴの策略にまんまと嵌ったまま、誤りを誤りとして認識することが出来ません。
エゴの存在に深く気づけないがために、誤りという貴重な体験をいくら重ねても、誤りを教訓として活かすことができず、同じ誤りを繰り返します。
こうした悪循環から脱却するには、何にもましてエゴを徹見することが大事です。
エゴを徹見するためのヒントは、自分の鏡である他者の言動の中にも、また自分の所業の中にも、数多く見出すことが出来ます。
獅子身中の虫であるエゴを徹見して初めて、エゴとの本格的な戦いが始まります。
エゴの狡猾さやしぶとさを正確に把握しない限り、エゴとの戦いに勝つことなど土台無理です。
何故なら、エゴは極論すると、百回殺しても百回よみがえってくる、まさに不死鳥のようなものだからです。
たとえ聖人と言われるような方でも、基本的な事情は普通の方と全く同じです。
彼らとて、毎日エゴと戦っている普通の方と、何ら条件は変わりないのです。
それでは、聖人と普通の方と一体全体どこがどう違っているのかといえば、聖人はエゴを戒め続ける心構えが、普通の方よりも強固なのです。
そして、エゴとの戦いに毎日勝ち続けている、ということなのです。
聖人は、何か特別のことをやっているわけではありません。
「生きている限り、エゴに勝ち続けよう」という不退転の決意が、聖人を聖人たらしめているのです。
小さな違いが、いつのまにか積もり積もって大きな違いとなって現れてきているということです。
もし仮に毎日エゴを殺す努力を重ねたとしても、エゴが死に絶えることは決してありません。
エゴは人間として生きている限り不滅です。
ですから、こうした毎日の心構えが最も大切なのです。
とどのつまり、人生とは、愛を実践するためにあり、一方では毎日のエゴとの戦いである、ということを深く理解したものだけが、エゴとの戦いに勝利し、愛ある人生を歩むことが出来ます。
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