前略 みなさま
私の人生を一言で表現するなら「失敗ばかりしてきた人生」ということになるかと思います。
実に、数限りない失敗を重ねてきました。
自ら意図してそうなったのか、それとも生まれる前からのシナリオに基づいて必然的にそうなったのか、よくわかりませんが、いずれにしても「よくもまあ」といった感じがするくらい失敗を重ねてきました。
また、人の話など一向に聞く耳を持たなかったので、その分ひとつひとつ実際に失敗を体験し、その都度「ギャー」というぐらい痛い目に遭ってきました。
そして、いくら失敗を重ね痛い目に遭っても、何故か世間一般の考え方とか、社会の常識といったものに迎合する気にはなれず、そういったものとはいつも距離をおいてきました。
かといって、若い頃によくある、社会に対してつっぱって格好をつけた、ということではなく、何となく「この世の中、どれもこれも何かがおかしいのではないか」といった思いが、頭から離れなかったのです。
今にして思えば、若いうちから何度も失敗を繰り返してきた怪我の功名で、自分の思い違いや愚かさに気づいたついでに、さほどの意識もないまま自然なかたちで、世間の矛盾や常識のウソなどを見抜いていたのかも知れません。
そして、世間とか常識とかに半ば背を向けたというか、あたかも挑戦するかの如く、人から見ればかなり奇抜とも思える独自の考え方で、世の中に処してきました。
このため、友人知人はもちろんのこと、身内からも、何を考えているのかわからない、かなりの変わり者、と思われていたかも知れません。
私にしてみれば、矛盾やウソだらけの世間や常識に対して、さほどの疑問も抱かずに盲従していらっしゃる方のほうが、よっぽど変わり者に見えるのですが、世の中とはえてして、見る立場によって評価が正反対になるようです。
皆さんの中には、私と皆さんは何か生まれながらにして違っている、と思っておられる方がいらっしゃるかも知れませんが、そのようなことは全くありません。
私とて、少し歯車が狂えば、あちら側の世界に出入りしたりしていたかも知れませんし、良くても、金儲けばかりやっていたかも知れないのです。
もし、私と皆さんとの間に何か違うものがあるとすれば、それは私は今現在、自分の思い違いや愚かさにある程度気づいているが、皆さんはまだあまり気づいておられない、ということなのだろうと思います。
そして、思い違いに気づいた後は、同じことを繰り返さないよう自分を戒め、特にエゴの台頭に対してかなり注意を払っているということです。
また、皆さんはいつもの習慣で、「常識」とか「世間並み」とか「損得」などといったものを基準に行動しておられるかも知れませんが、私は愛が絡んだもの以外は、人間のやることなすこと全てがスカだと思っており、愛を基準に行動しているということです。
こうした、ほんのわずかな基本的考え方の違いが、時間の経過とともにより大きな違いになった、ということなのかも知れません。
ここで一言お断りしておくと、私の愛は、単純なやさしいだけではありませんから、誤解しないで下さい。
どういう事かと言うと、私の愛は、やさしさの中にも厳しさがあり、逆に厳しさの中にもやさしさがある、どのような型にもまらない変幻自在なものだということです。
ですから、傍から見ると何がどうなのか容易に理解出来ないかも知れませんが、そういった愛もあるということです。
それから、皆さんの中には、私との違いをことさら強調したい方がいらっしゃるかも知れませんが、そういった行為自体、実は自分が出来ない理由を他者のせいにし、もって自己を弁護しようとするエゴの常套手段であるということに、気づかなければなりません。
エゴを撲滅するための有力な方法のひとつに「一切言い訳をしない」というのがありますが、よろしかったら頭の隅っこにでも入れておいて下さい。
これは、いつも申し上げている素直とか謙虚ということと相通じるものがあり、エゴを一気に叩き潰すにはとても良い方法です。
人間はえてして、良いことは自分のせいで、悪いことは他人のせいにするきらいがあり、そんなことばかり繰り返していると、いつまで経っても自分の思い違いや愚かさが見えてきません。
ですから、自分にとって具合の悪いことが起こった時には、一切言い訳せずに、自分の思い違いや愚かさをあぶり出し、それを素直に認める絶好の機会と捉えることです。
そして、その時だけの一時的な行為の非を認めるということではなく、それよりももっと奥深いところにある、全てに共通する根本的な自分の思い違いや愚かさを正確に把握することが大事です。
世間では、落ちるところまで落ちないとわからない、とよく言いますが、こうした基本動作さえしっかりしていれば、必ずしも落ちるところまで落ちる必要などありません。
私はこれまで、素直とか謙虚という言葉を繰り返し使ってきましたが、その深意は、素直にまた謙虚に自分の思い違いや愚かさを認めることが大切ですよ、いうことだったのです。
世の中には、人の話などほとんど聞いていないのに、何でもかんでもすぐ相槌を打って、さも聞いているかのような振りをする、社交辞令的な素直さや謙虚さを演じる方が大勢いらっしゃいますが、そのようなものは何も意味のないことです。
それよりも、一見聞いていないようでも、重要なことをきちんと把握し、自分の所業と比較して、自分の思い違いや愚かさに速やかに気づくことが出来る人が、真に素直で謙虚な人です。
自分の思い違いや愚かさに気づくということは、実は覚醒の重要な第一歩であり、肝腎要の急所です。
そして、これこそがとりもなおさず、自分自身を知る、ということに他なりません。
ある方の預言に、近未来の宗教の根本教義は、みなこぞって「自分自身を知る」といった類になるだろう、というのがありました。
近未来に宗教が存続するのかしないか、よくわかりませんが、もし存続するとするならば、この方の預言は、当たらずとも遠からず、になると思います。
ただし、「自分自身を知る」といったことは、特に目新しいものではなく、大昔から聖人が繰り返し言ってきたことであり、ほとんどの方に理解されないまま、今日に至っているだけのことです。
「自分自身を知る」とは、まず第一に、自分の思い違いや愚かさを知るということであり、第二には、そうしたものの大元となっているエゴの存在を知るということであり、第三には、自分は神であり、神とは愛である、ということを知ることです。
そして最後には、自分が神であり愛であることを充分に理解したら、そのように生きなさい、ということなのです。
皆さんはこうした道理を、もうすでに完璧に近いほどご存知であり、あとはこうしたプロセスを実践されることだけが、唯一残っているわけです。
そして、皆さんがこうしたプロセスを実践される際において、何が一番ネックになっているかというと、第一番目の、自分の思い違いや愚かさに、まだほんのわずかしか気づいておられない点なのです。
これがしっかりと把握出来てないがゆえ、後のものがみな中途半端になっています。
どうかこうしたことをよく理解されて、速やかに自己改革を成し遂げられますよう、心より願っております。
D