コロナという名の妖怪レントゲン
コロナ禍が終わってしばらく経った。
あの騒動の中で、多くの企業で「いてもいなくても大差ない人」の存在が可視化された。
そう記憶している方は少なくないだろう。
総員リモートワークという実験的環境が、奇しくも組織の内側を透視する装置になった。
ところが、その後「大量解雇が起きた」という話を日本ではほぼ聞いたことがない。
では、彼らはすんなりブルシット・ジョブ的な業務へ帰還したのか?
結論から言えば、
答えは「そうとも言い切れないし、そうでないとも言い切れない」
という、いかにも日本的な曖昧さに着地する。
怪物は死んでいない。ただ、照明が当たっただけだった
まず確認しておきたいのは、コロナを経ても日本の失業率は低水準のままだったという事実だ。
2025年の完全失業率は2.5%、有効求人倍率は1.22倍。
人手不足倒産は過去最多水準に達している。
つまり、「余剰人員を一気に解雇する」よりも「人が足りないのに配置が悪い」という歪みのほうが、日本の労働市場の本質的な姿に近いのだろう。
日本企業の雇用システムでは、余剰が出た際に整理解雇より先に、配置転換・出向・職務の付け替えという方法が選ばれやすい。
これは制度的な慣習であり、解雇を法的にも社会的にも慎重に扱う文化の反映でもある。
コロナ禍で露呈したのは「無駄な人が急に増えた」ということではなく、平時には霧の中にあった”低密度な仕事”や”成果の曖昧なポスト”が、リモートワークというレントゲンによって可視化されたということだ。
出社文化の下では、「席にいる」「会議に出る」「根回しする」がそれなりに仕事として機能しているかのように見える。
ところが在宅になって、その霧が一気に晴れてしまったのだが…。
彼らはその後、どこへ行ったか
実態は、おそらく次の四つが同時進行した形だ。
- 本当に元のポストへ戻った
出社回帰の波に乗り、対面会議・社内調整・承認・資料づくりといった日本企業特有の間接業務が再膨張し、以前と似た役割に戻った人たちがいる。
- 人手不足の現場に再配置された
慢性的な人手不足の部署に送り込まれ、新たな役割を担い始めたケースもある。
- 役割を薄くしたまま社内に残った
何をしているのかよく分からないまま、空気のように組織の中に漂っている状態。
- 希望退職・早期退職で静かに外へ出された
2025年には上場企業43社で早期・希望退職募集が確認され、対象は1万7875人。大量解雇という劇的な幕引きではなく、日本らしいソフトな選別が始まっている。
つまり、怪物は死んでいない。
ただし、以前より照明が当たったことで、何匹かは舞台袖へ退場し始めた——そんな感じであろう。
「はたらかないオジサン」は会社が製造した制度生物
「はたらかないオジサン」問題を個人の怠慢だけで片づけるのは、現状を見誤っている。
日本企業では、本人が無能というより、年功的処遇で賃金だけ上がり、職務定義は曖昧なまま、マネジメントも再教育も甘く、責任の薄い中間ポストに滞留することで、会社が構造的に”そういう人”を製造してきた面がある。
コロナはそれを照らし出しただけで、魔法のように解体したわけではない。
妖怪が生産される構造は、おおむね四つに分解できる。
- 年功的処遇と職務の曖昧さ
賃金は勤続年数に連動して上がるのに、担う職務はどんどん薄くなる。職務が明確に定義されていないから、「このポストは不要」と整理しにくい。
- メンバーシップ型雇用
「特定の職務に採用する」のではなく「会社のメンバーとして採る」発想が強いため、機能が不要になっても職務単位で切り分けにくい。その周辺に調整・確認・資料化・承認補助のような”薄い仕事の霧”が発生しやすい。
- 「管理している風」の役割の増殖
長年現場を離れた人や、スキルの更新が弱い人は、現場の実務より横断調整・進捗確認・会議出席・上申資料づくりに吸収されやすい。現場は人が足りないのに、組織全体では生産性の薄い役割が温存されるという奇妙な二重構造が生まれる。
- 会議文化・稟議文化・資料文化
多くの関係者を巻き込み、調整と説明責任を重ねる運用が根強い結果、価値創出ではなく存在証明のための仕事が膨らんでいく。
「オジサン問題」ではなく「制度問題」
ここで、一つの誤解を解いておきたい。
「はたらかないオジサン」という言葉は、どこか中高年特有の現象のように聞こえる。
万年課長が調整業務だけをこなし、若い頃の専門性を手放したまま役職だけが残っている——確かにそのイメージは間違っていない。
しかし本質はそこではない。
同じ構造に飲み込まれれば、若者も同じ経路を辿る。
入社数年で「この仕事、自分がいなくても回るな」と感じた経験はないだろうか。
会議のための会議に出席し、誰も読まない資料を整え、意思決定者が決めた後で関係者合意の儀式を踏む——そういった業務に埋もれていくのは、年齢の問題ではなく環境の問題だ。
役割が曖昧で、成果の定義が緩く、「いたこと」が評価される組織に長く身を置けば、20代でも30代でも、じわじわと半透明の仕事人間になっていく。
「はたらかないオジサン」は、特定の世代に固有の人格的・能力的問題ではない。
曖昧な役割、増殖する会議、再教育なき放置、存在を証明するためだけの仕事——この4つが揃えば、誰でもなれる。
むしろ、誰でもなってしまう。
そして、AIが社会に本格的に浸透し始めた今、この構造はさらに加速する可能性がある。
ブルシット・ジョブと調整労働の間
ここで少し立ち止まって整理したい。
デヴィッド・グレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ」とは、”被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている”仕事である。
一方、日本企業に特徴的な調整労働——部門間連携、情報共有、意思決定の前捌き、利害調整、トラブル予防——は、成果が見えにくいとはいえ、組織運営には必要なものだ。
問題はその量と純度にある。
A. 本当に必要な調整労働がある
営業案件を現場が実行できる形に翻訳する、法務・経理・現場の認識ズレを埋める、事故やクレームの芽を事前に潰す——これらは数値化しにくくても、組織の摩擦損失を確実に減らしている。
B. 必要だが、多すぎる調整労働がある
本来1回の会議で済むものが、事前説明・根回し・関係者レビュー・部長説明・再修正・本会議・会議後フォローに分裂する。仕事はブルシットではないが、限界効用が低い。追加の会議1本、追加の確認1枚が、ほとんど価値を生まない状態だ。
C. もはや存在証明のためだけに回っている仕事がある
誰も読まない報告資料を毎週フォーマットだけ整えて出す、意思決定は非公式に終わっているのに儀式として会議を開く、責任を分散するためだけに関係者を増やす——ここまで来ると、調整労働の皮をかぶった存在維持装置だ。
日本企業に多いのはBで、そこからCに滑りやすい構造になっているように見える。
そしてこの「BからCへの滑落」は、中堅以降の社員だけに起きるわけではない。
入社数年目の若手が、気づかないうちにCゾーンの仕事に最初から配置されているケースも珍しくない。
調整しかしない先輩の下で調整を学び、存在証明の資料を見本にして資料を覚え、気づけば同じレールの上を歩き始める。
制度が人を育てるように、制度は人をブルシット化させる。
AIが社会に浸透する過程で、人間は何を発明するか
さて、AIやフィジカルAIによって仕事が消えていった後、人間はどのようなブルシット・ジョブを生み出すのだろうか。
歴史を振り返ると、人間は実に奇妙な動物だと分かる。
効率化が起きても「暇になる」のではなく、新しい忙しさを発明する。
産業革命が起きると管理職が増えた。
コンピュータ革命が起きると会議とレポートが増えた。
インターネット革命が起きるとKPIが増えた。
SNSができたらその運用が増えた。
AIが労働を代替しても、人間はおそらく驚くべき創造力で新しいブルシット・ジョブを発明するだろう。
その輪郭は、すでにある程度見えている。
AI管理の管理
AI監査官、AI倫理監督官、AI意思決定説明担当、AI出力品質保証担当——表向きは必要そうに見えるが、AIが自己監査できるなら多くは不要だ。
「AIが正しいことを確認する人を確認する人(笑)」
官僚制は自己増殖する。
典型的なBox Ticker型のブルシット・ジョブになる。
AI人格管理
AIが顧客対応をする社会では、AIキャラクターデザイナー、AI感情チューナー、AIトーン&マナー監修といった仕事が生まれる。
「AIが人間っぽく振る舞っているかを確認する仕事」だ。
AIが最適化できるなら、かなりの部分は演出産業に近い。
意味の演出産業
AIがほとんどの価値を生む社会では、人間の役割は「価値の演出」になる。
人間が作ったように見せる編集者、手作業っぽさ演出ディレクター、人間参加型サービス設計者——既にその萌芽は「Human curated」といった言葉の誕生と浸透に見える。
これはある種の意味のマーケティングだ。
人間の存在を管理する仕事
市民活動コーディネーター、社会参加デザイン官、コミュニティ活性化マネージャー、人生目的コンサルタント——これらはAIの浸透以前からウェルビーイング産業やライフコーチの形で始まっていて、AIの浸透によって加速度的に増えることが予想される。
「人間が何をして生きるかを管理する仕事」が増殖していく。
AI意思決定の承認職
そして最もブルシット度が高いのが、AIが最適解を出す社会で、人間が最後に「承認します」と言うだけの役割だ。
AI決裁承認官、最終責任担当、人間判断確認者——実際にはAIの判断を変えることはほぼない。
官僚制の最終形態に近い。
未来のブルシット・ジョブ三種
眺めてみると、パターンが浮かび上がってくる。
未来のブルシット・ジョブは、大きく三種類に収斂する可能性がある。
- AIを監督しているように見せる仕事
- AIを人間っぽく見せる仕事
- 人間に意味を与えているように見せる仕事
共通しているのは、いずれも「見せる」という行為が核心にあることだ。
実態より演出が前景化している。
そして「見せる」ために費やされる時間と労力は、若者にも中高年にも等しく降り注ぐ。
未来のブルシット・ジョブに「オジサン限定」の但し書きはない。
意味を生きる
ここで少し、立場を変えて考えてみたい。
AIが社会の多くの価値を生み出すようになったとき、本当に重要になるのは生産ではなく意味になる。
社会の中心産業は、ストーリー、文化、共同体、遊びになるのではないか。
皮肉な話だが、そこに至って初めて人間は古代の部族社会に近い生活へ回帰するのかもしれない。
仕事は少なく、儀式と物語と共同体が多い社会。
人類史を俯瞰すれば、人間はそこにきわめて長く住んでいた。
文明がそれを一時的に忘れさせていただけかもしれない。
そこまで大きな絵を描かなくても、今この瞬間に問えることがある。
自分はなぜ働くのか?
自分の人生に、何を意味として置くのか?
「はたらかないオジサン」問題を遠くから眺めていると、それは他人事のように見える。
しかし前述のとおり、この問題の核心は世代にも職位にもなく、意味の不在を許容する仕組みにある。
何のための仕事か分からなくなったとき、人は存在証明のために仕事を積み上げ始める。
調整のための調整、会議のための会議、資料のための資料——それは意味を喪った時間の使い方だ。
逆に言えば、意味を持って働いている人は、制度に飲み込まれにくい。
役割が曖昧であっても、自分が何に貢献しているかを自分の言葉で語れる人は、組織の中で漂流しないし、人生が根無し草になることもない。
何かを前進させるために動いている実感が、存在証明の必要性を引き取ってくれる。
私はこれまで、茶と武という二つの道を通じて、繰り返しそのような問いに向き合ってきた。
稽古の場では、効率や成果よりも先に「なぜ、この一服を点てるのか」「なぜ、このように動くのか」という問いが来る。
それは生産性とは無縁の問いであり、しかしだからこそ、仕事の本質に直結している。
生きていく上で避けられない働くという行為を、意味のあるものにしたい。
自分の人生の時間を、存在証明のための仕事に費やすのではなく、何を意味とするかを問うこと、その問いに応えようとすることに使いたい。
既に燃え尽きてしまった人も多いが、潜在的にそう願っている人々が少なくないことを確信している。
茶の湯の世界では、亭主が客をもてなすための下準備から、一碗の茶を点てるまでの一切が「仕事」だ。
それは誰かの命令でもなく、生産性の指標で測られるものでもない。
ただそこに美しさと意味があるから、する。
AIがどれほど社会を塗り替えても、意味は機械に委託できない。