自分探しなどしても無駄
人は、素の自分でいられないと、アイデンティティクライシスに陥る。
必然的に自己同一性を探す旅に出ざるを得なくなる。
世の中には、自分探しの旅に出る人向けのサービスや情報が本当に沢山ある。
それらを作った人に悪気がないことはわかっているが、そこにはまるのは無駄足である。
私もそういったものに散々時間とお金を投資してきたが、得られたものはといえば、多少物知りになったくらいではないだろうか。
自分を探している限り、決してそれを見つけることはない。
多くの自分探しの物語が最終的に辿り着くのがスタート地点であるように。
外の世界を探求してみたところで、そこに自分と同じ感覚・感情を伴った自己が存在するはずはない。
自分が何者であるのかを自分以外のものや人から探しだそうとしても見つかりはしないのだ。
Don’t think. Just feel.
本当の自分は、自分の内面を感じ取る以外に見つけることはできないのが道理である。
”舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。”
芭蕉の旅が自分探しであったとは思わないが、彼が言ったように旅を終えることなく死を迎える人は少なくない。
私は長いこと自分探しの旅に出ていたが、幸いにして旅を終えることができた。
もし今、旅の途上にある方がおられるなら、参考までに私からの土産をここに置いておきたいと思う。
そもそも、なぜ自分を探さねばならぬのか?
素の自分自身を感じ取ることができていれば、本物の自分がどんな人間なのか悩む理由などない。
旅から帰ってきた今にして思えば、言語を獲得する前の自分、つまり幼い自分が本当の自分を封印してしまったのが事の発端だったのだと思う。
乳児は健全に生きていくために、アプリオリに親から、居場所、愛情、スキンシップ、おっぱい(以下、まとめて「親の愛」という)を与えられることを必要とする。
何らかの理由で、それらが手に入らない場合、子どもは自分がありのままの状態でいてはならないものとして、本来の自分を隠して別の人間に成り代わろうとする。
親が気に入るような人間に。
親の要求に答えなければ生きていけないから。
親の愛が与えられないのは、自分が悪いのだと理屈抜きに認識してしまうのだ。
そして、なんとかして親の愛を引き出そうとして自分で自分を改変する。
これは人類に共通する行動特性のようだ。
年齢的に論理的思考が可能になるはるか前の段階のことだ。
ありのままの自分でいては親の愛を得られないから、本当の自分を隠して、架空の自分を創ってそのように振る舞う。
この時点で精神的に死んでいる。
自分ではない人生を歩んでいるなら、生きているとは言えないだろう。
自分の肉体生命を守ろうとして自分の精神を殺してしまったのだ。
心理的自殺である。
そして、精神的死者のまま大人になると、架空の自分が最終的に本当の自分を殺す。
つまり、本当の自分の存在を取り戻せないまま、架空の自分が人生の時間を食い潰すことになる。
一方で、架空の自分は過去のミッションのために常に戦い続けてきた。
素の自分でいては、生きるための要求が満たされないという現実から目を背けるために。
本当の自分を殺さなければならなかった苦痛を感じないようにするために。
ある意味では自分を守ってくれたのだ。
自分が乳幼児だったあの頃、とにかく親に屈服することが生きるための手段だった。
親の愛を得るためにやむを得ず別の人間にならなければならなかった。
そして、本当の自分に取って代わった架空の自分をいつの間にか本当の自分と認識するようになってしまった。
死んだまま生きている状態。
即ち、自分探しは死者の彷徨なのだ。
普通に考えて、人間が自分と同一視できる人間は、本当の自分だけである。
自分が自分自身でない状態だから、自分を探さねばならないと心のどこかで強迫観念を感じるのだ。
あるいは、自分の存在価値を認められないから、探求そのものを人生の価値として仮置きしたのだ。
しかし、どこへ行ったところで自分は外界には存在しない。
幼い要求が満たされなかった人は皆、その昔、架空の自分を自分で創り出した事実をいつの間にか忘れてしまっている。
本当の自分を探そうとしても、それは今なお自ら隠しているのだから見つかるはずがないのである。
自分で隠したものを自分で探すという自作自演をして何が楽しいのだろうかと思うが、私も過去散々そんなことをして苦しんできた。
いわば、自分で創ったマトリックスに自分からはまり込むようなものだ。
実に切ない。
どうせ時間を使うならば、先にゲームのルールを学んだ方がいい。
ルールを学ぶために人生の大半を費やすなど馬鹿げている。
痛みを感じ取ること
私の場合、やることなすこと親から「ダメ」と言われ続けてきた。
刷り込みを受けて、ありのままの自分でいては「ダメ」だと洗脳されてきたようなものだ。
この時点で、2つの怒りが生じる。
自分を否定する親への怒りと、自分を殺してまで親に迎合しようとする自分への怒り。
後年、私は無意識的にこれらを他人に投影して、人間関係で散々悩むことになった。
自分に否定的な意見を述べる者や、他者に迎合する人間を徹底的に叩いた。
これは単に自分が否定されたことの裏返しである。
幼少期に満たされなかった親に受け入れてほしいという要求を大人になっても無自覚に満たそうとし続けていたのだ。
実に不合理だが、ここにこそ人生ゲームのルールを読み解くヒントが横たわっている。
己のネガティブな感情の裏には、必ず未充足の要求が隠されているのだ。
試しに、どうしてか沸き起こってくる怒りや不安といった感情を正面から感じ取ってみてほしい。
感情に直面してそれを味わうと、蓄積していたエネルギーが徐々に抜けていく。
たとえるなら、自分を保護してきたセキュリティシステムのバッテリー残量が減っていく。
そして、ついにはセキュリティシステム自体が停止する。
すると、感情に覆い隠されていた事実が見えるようになる。
映画で、石板の上に厚く積もったホコリを払うと文字出てくるシーンがあるが、そんな感じだ。
この作業がなかなかに大変ではある。
そもそも、心理的自殺を図らなければならなかった苦痛を見ないようにするために架空の自分にしがみついてきたのに、それを手放さなければならないのだから。
やってみるとわかるが、感情を味わっている最中に、とっくの昔に忘れていた過去の記憶が蘇ってくる。
それを思い出すことは本当に苦しい。
しかし、ここが勝負どころ。
蘇ってきた記憶に留まり続けるのだ。
そのシーンで当時の自分が味わっていた苦痛を今味わい尽くす。
すると、不思議なことが起こる。
封印していた記憶と抑圧していた感情が結びついて昇華するように解消されていく。
このプロセスを日常のあらゆる出来事を通して繰り返し行うのだ。
出来事から影響を受けてネガティブな感情を感じるたびに、それをちゃんと味わう。
RPGで次から次に出現する敵を倒すようなものだ。
どんどん倒していくと、ラスボスに出会う。
母である。
いつの日かラスボスを倒したとき、気づけば、辛かった黄泉の国への旅は終わりを迎えていることだろう。
文字通り黄泉還るのだ。
無限とも思える恐怖や憎悪と向き合い続けるのは相当厳しいことは確かである。
だが、それをやりおおせない限り、あなたは死んだままだ。
本物の人生を生きたいと願うならば、やってみる価値はある。
旅から帰還した暁には、これまでとは全く違う世界が待っている。
幸運を祈る。