「ズッシリと、肩に食い込む、閻魔帳」
「消したいが、消しても消えぬ、カルマ文字」
某月某日、○日目
私は作文とスピーチが大の苦手である。
理由は、あまり勉強してこなかったため、頭の中がスカスカだからである。
自慢じゃないが、小説もアカデミックな本もほとんど読んだことが無い。
若い頃の一時期、このままでは痴呆症が進行すると思い、各種専門書を片っ端から読んではみたが、何も頭に残らなかった。
そこで出した結論は、こんな小難しいことを書く人は、きっと頭が悪いに違いない、であった。
頭の悪い人が書いた本を読むともっと悪くなるから、もう読まないことにした。
ユニークな漫画を描いている気骨ある漫画家のほうが、どこかの有名なセンセー方より、よっぽど想像力に溢れた良い仕事をしていると思っている。
今でもその考えに何ら変わりは無い。
大学は一応、スーッと入ってスーッと出たが、ズーッと学校には行かず、もっぱら学校のすぐ近くにあった専門学校にばかり通っていた。
よく通った学校は、チーポンカン大学(アンポンタンではない)とお銚子大学の二校である。
チーポンカン大学では、引っ掛けリーチに関する深層心理を研究テーマに選んだ。
引っ掛けリーチを多用するものの多くは性格がイジコク、引っ掛けられたものは仇を取ろうとして次は引っ掛けようとする衝動に駆られる悪の循環が発生することがよくわかった。
この研究は後々、タチノワルイ大天使たちとの聖戦を戦い抜くのに大いに役立った。
お銚子大学では、米や麦の汁を発酵させる過程における様々な変化と、それを飲用することによって人体にどのような影響が出てくるかを研究テーマに選んだ。
連日連夜自分の体を使って研究に励みすぎたためか,卒業するまでにノーミソが過剰発酵してしまい、ミソが溶けてノーなってしまった。
これが本当の、ノー足りん、である。
このため研究が未完成で終ってしまったが、捨て置くことも出来ず今もその続きをやっている。
私は生まれながらにしての真摯なる学究の徒であり、一旦始めたものは最後までやり遂げることが信条である。
がしかし、昨今は辛口ブームが続いており、いつになったら研究が完成するか、辛口だけにサッパリわからない。
大学時代の遊び仲間はみなやさしくていいヤツばかりであった。
より正確な表現をすると、私に輪を掛けたような変なのとバカばっかだったので、お陰で落ち込んだことなどただの一度も無かった。
私の持ち味は動物的な感覚である。
犬のような臭覚と、猫のような第六感である。
決して牛のような鈍感さと、馬のような聴覚ではない。
人はよく私のことを、無鉄砲だという。
だがそんなことはない、ちゃんと私も水鉄砲?を持っている。
私は奇人変人が大好きである。
先日テレビでみうらじゅんさんいう方の対談をはじめて拝見したが、真剣に聞き入ってしまった。
とても柔軟な発想をしておられ、アッパレ、の一言だった。
こういった方に国政や道路公団などの舵取りを任せたら、面白い結果が出るのではないか、と勝手に想像した。
日本国総理大臣みうらじゅん、あるいは日本道路公団総裁みうらじゅん、なかなか良いではないか。
最近ちょっと暖かくなってきたせいか、こうるさいヒト型ブンブン虫がよく夜中に走り回るようになってきた。
彼らを見るたびに教育の抜本的な改革の必要性についてついつい考えてしまう。
最もよい方法は何か・・・・・。
それは、中学三年生ぐらいになったら、修学旅行の代わりに全員をインドの農村に3ヶ月ほど奉公に出すことである。
そうすれば帰ってくる頃には、みないい子ちゃんになっていることだろう。
私のお気に入りの標語は
「この世の中で一番大切なものは愛であり、思いやりとやさしさである」
「何があってもガタガタするな、感謝、笑顔、良かった良かった、を貫きとおせ」
「人は他人の話などほとんど聞いていない、だからどうせ話をするなら、面白くて、おかしくて、なおかつチョッピリためになる話をせよ」
「何事にも人に勝つな、そんな暇があったら自分に克て」
「人生は長さではない、密度である」
「酒を飲むなら徹底的に飲め、中途半端なら最初から飲むな」
「金は自分と人のためにじゃんじゃん使え」
などであり、みんな自作である。
ただお仕舞いの標語のせいか、今も昔も素寒貧であえいでいる。
であるから、これに関してはあまり参考にしない方が良い。
最近ちょっと真面目すぎたので、溜まりに溜まっていたジョーダンエネルギーをまとめて発散してみた。
笑って頂けたら幸いである。
みなジョーダンであるから、本気にしないように・・・・・。
ただでさえ暗いニュースばかりが飛び交う昨今、明るくパーッと行きましょうや、パーッとね・・・・・。
さて、世の中には、人生を楽しむことが大事である、と強調されている方がよくいらっしゃる。
私は皆さんが楽しまれることに対して、大変結構なことだと思っているし、それ自体さほど異論もない。
が、ただ単に自分ひとりが楽しむのではなく、周囲の方たちとも一緒になって楽しむことが出来るかどうかが、とても重要であることを是非強調しておきたい。
何故なら、自分が楽しむことも結構だが、他人が楽しんだり喜んだりするその中にこそ、自分にとっての真の楽しみや喜びが存在するからである。
自分の楽しみや喜びよりも他者の楽しみや喜びを優先することが、まさに愛に他ならない・・・・・。
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