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組曲D 第8楽章 2004/3/10

  • 2021年10月26日
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「道求め、道に迷って、道遠し」

「道草を、ついつい重ね、はや五十路」

某月某日、○日目 近所のおばあさんに、是非○○を読んでみて下さいと懇請され、無下に断るわけにもいかず、はからずも○○を読むことになった。

毎日一通り目を通してみたが、判で押したように代表者に対する賛辞と、袂をわかった同門に対するワルクチばかりが目立った。

どうやら、本家争いと信者の帰趨を巡って永らくモメているらしい。

私はこういった新興宗教と呼ばれるものに関しては門外漢であり、何が本当で何がウソなのか知る由もなく、これに関してコメント出来る立場には無い。

ただ、機関紙の内容がかくもお粗末であるということは、一事が万事なのだろうから、それにもかかわらずどうして大勢の信者さんを繋ぎ止めることが出来ているのか、不思議に思った。

そして、そうした記事の横には、釈迦が説いたとされる八正道に関する記事が空しく併記されていた。

今日は「正しさ」についてである。

人は誰しも、自分は正しいが誰それは間違っている、などと口角泡を飛ばしながら言い争いをするが、そもそも「正しさ」とは一体全体どういうことなのか、真に理解しておられる方は意外と少ない。

どういうことかというと、人間社会における「正しさ」というものの多くは、その時代の常識を基にしており、常識の移り変わりとともに「正しさ」も変化してきたということだ。

もちろん本当の「正しさ」は不変であるが、人間が考えるところの「正しさ」は、本当の「正しさ」とは大分違うのである。

例えば、直近の三百年における「正しさ」の基となってきたわが国の常識を振り返ってみると、江戸時代は殿様と藩第一主義・武士道・忠義・士農工商・男尊女卑であったし、明治・大正・昭和初期のそれは天皇と国家第一主義・殖産興業・富国強兵・植民地主義・軍国主義となり、戦後は仕事と会社第一主義・民主主義・平和・平等・自由、とかなり変化してきたことが窺える。

そして、常識というものが宇宙の真理に沿ったものであったら良かったのだが、そうでなかったことは一目瞭然であり、そうなると必然的に常識を基にしてきた「正しさ」もズレたものになったのは当然だったのである。

念のために繰り返すが、常識が宇宙の真理に沿ったものであったなら、とうの昔に大多数の人類が覚醒していたはずであり、実際にはそうなっていないところをみると、いつの時代の常識も宇宙の真理とは大分かけ離れていたことは明白である。

であるから、常識を基にしてきた「正しさ」も宇宙の真理からみると間違ったものが多かったのである。

そして、こうした常識と「正しさ」の密接な関係をほとんどの方が理解しておらず、時折矛盾を感じたり疑問を抱くことがあっても、しばらくするとまた常識を基にした「正しさ」を選択してしまう方が多いのである。

何故なら、そのほうが何かにつけ無難であり、気楽だからである。

出る杭は打たれるが如く、ひとりだけ反旗を翻しても仲間はずれにされてしまうので、ついつい長いものに巻かれてしまうのである。

皆さんも心当たりがあるはずである。 じゃあ一体全体、本当の「正しさ」とは何なのかだが、「正しさ」とは愛なのである。

もし、その人の行動や言葉や想念の中に愛があれば、それは正しいのである。

ただし、ここでよく間違えてしまうのが、愛とエゴの混同である。

独占したり、束縛したり、強制したり、干渉したりするものは、みな愛ではなくエゴである。

そして、愛や本当の「正しさ」は、自分が一時的に傷つくことがあっても、相手を傷つけることなど滅多に無い。

がしかし、エゴが絡んだものは自他共によく傷つく。

そして、これが原因で引っ込み思案になる方が多い。

また、愛や本当の「正しさ」を実践すると、経済的な損失を伴うことが往々にしてある。

多くの方がこれを嫌って、愛や本当の「正しさ」を躊躇する。

だが、経済的に損をすればするはど、逆に霊的成長という観点からはその数万倍とか数億倍の、それはそれは大きな得点となる事を是非とも知って欲しい。

そうはいっても、どちらを選ぶかはあくまでその人の自由であり、私がとやかくいう筋合いではない。

私は、皆さんがこれから常に愛と本当の「正しさ」を選択されることを期待している。

次は、「正しさ」に関連して八正道についてである。

仏教界では、釈迦が弟子たちに対して四諦のひとつである道諦、すなわち苦を消滅させるための具体的な実践法として八正道を説いたということが史実となっているが、私はこれに対して懐疑的である。

かといって、八正道に書かれている内容自体に特段の不満があるわけではなく、「正しさ」というものを解説したついでに、昔から疑問に思っていることを書いているだけである。

その点、誤解しないように。

懐疑的な理由は第一に、経典そのものが、釈迦ご自身の手になるものではなく、入滅後かなりの時間が経過して、しかもヒンズー教の影響を色濃く受けた中で、宗教学的なひとつの体系として伝承を元に編集されたものであり、八正道の記述は一部もしくは全部が後から書き加えられた感が否めないのである。

第二に、人間社会における「正しさ」というものが時代とともに変遷してゆくものであることなど、不世出の心理学者でもあった釈迦はとっくにお見通しであったはずである。

にもかかわらず、そういった「正しさ」などといういかようにも取れる曖昧模糊とした概念を、説法の中で持ち出されたとは考えにくい。

また、権威や伝統や常識に惑わされず、自分自身の良心にこそ判断の基準を求めなさいとした「自法灯」の法話と、大分ニュアンスが異っている。

第三に、誰にでもわかるような平易な説法を心がけておられた釈迦が、苦を消滅させるための具体的な実践法として、八正道のような少々難解な内容を話されたとは想像しづらい。

もし仮に同様の説法をされるなら
「いついかなる時も思いやりとやさしさを忘れずに、自分と他者が共に喜べるような、善き行いと、善き言葉と、善き想い、の三つを心掛けなさい」
の一言で用が足りたはずである。

またその当時、基本的なモラルはすでに確立しており、誰もが知っているようなことに改めて言及しなおす必要があったとは考えにくい。
等々である。

この八正道に限らず、経典には聖書同様不可解な記述がいくつも見受けられるが、およそ2500年も前のことであるから真偽のほどは立証し難く、また興味のない方にはつまらない議論であるかも知れないので、これ位にしておく。

ただ、真理は限りなくシンプルなものである、ということも併せて強調しておきたかったので、この話題を取り上げた次第である。

冒頭の一例のように、熱心に八正道を勉強されておられる方が、実際には八正道とはズレたことをなさっている現実、これはとりもなおさずこの世で本当の「正しさ」を実践することがいかに難しいかを如実に物語っている。

よろしければ、他人事だと思わず、他山の石として、何かを感じ取って頂きたい。

本当の「正しさ」は、権威や伝統や常識や主義や主張の中ではなく、愛を実践してゆく中に常に存在している・・・・・。

D

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