自然の摂理として、子はいつか親になる。
では、人間の親は何者か?
アダムとイブ(的な存在)の親は創造主(的な存在)である。
という事は、つまり人間はいつか創造主になる。
当然、全員がそうなるわけではない。
人間の子供が人間の親になるのは、1回の人生の間で起きる可能性がある出来事。
人間が創造主になるのは、1回の宇宙開闢の間で起こる可能性がある出来事。
ある意味で子は親になるために人生経験を積んでいるのだとしたら、人間は創造主になるために輪廻転生を重ねていると言えるのではないだろうか。
人生の究極の目的はそこにしかないように思う。
そうでない結論を持って来るとしたら、楽しむためであるとか、夢を叶えるためであるとか、そういった人間臭い考え方に帰結せざるを得ない。
私たちは、子供の頃に親の思いや考えを理解できていただろうか?
親になって、初めて親の考えがわかるものである。
であるならば、人間であるうちに創造主の考えは、きっと理解できないであろう。
創造主の観点に到達して、初めて創造者が考えていたことが理解されるのではないだろうか。
人生は、創造主になるための修行のプロセスである。
子供が遊び学ぶのは、親になるための修行のプロセスであるのと同様に。
そう思うようになってから、仏教で言うところの無常のものに執着することがほぼなくなった。
もちろん、社会的動物として周囲の文脈に合わせざるを得ない時もあるが、それをさほどストレスとは感じなくなった。
逆に世俗的なことにマジになれずに冷めた気分になる事は否めない。
とはいえ、人生のあらゆる出来事が創造主に向かう修行なのだ。
翻って、私利私欲に走って様々な軋轢を生もうが、ひいてはそれが戦争に発展しようが良いのである。
自分が加害者となっても被害者となっても。
そういった経験を通して学ぶことが多々あるのだから。
もちろん、人や自分が喜べること、それにまつわる出来事から学びたいですけどね。