正しさには大して価値がない
「正しい / 間違っている」という判断は、ある瞬間に正しくてもそれがいつも正しいとは限らない。
むしろ、これまで正しかったことが、時と共に誤ったことになることが往々にしてある。
ある一時点では絶対的なものだと思われていても、価値観が固定された状況は、そう長くは続かない。
1940年台にIBM創業者のトーマス・J・ワトソンは、
「コンピュータは全世界の市場でせいぜい5台ぐらいしか売れないだろう」
と言ったそうだ。
また、90年台初頭には、人々がインターネットで物を買うわけがないというのが常識だった。
今考えると、「なぜそうなった?」と首を傾げたくなる。
だが、その当時の最新の感覚としては、それが正しかったのだ。
正しさの移り変わりには2種類ある。
1つは外部環境の変化によって、対応を迫られるケース。
例示した通り、時の流れが自分の認識よりも先行してしまうことはままある。
いま1つは、自分の変化によって、その瞬間の正しさが変わっていくケース。
つるかめ算を小学生が解くとしたら、面積図を使った解法を選択することが正解の1つである。
しかし、中学生になれば、連立方程式で解くことが最も単純かつ迅速となる。
それ以外の解法は考えるだけ無駄なのではないかと思うようになるものだ。
もし、いつまでも面積図での解法にこだわっていたとしたら?
数学の知識が身につかず、同級生からあっという間に置いていかれてしまうだろう。
つまり、正しさというものは相対的なものでしかない。
絶対的な正しさなど存在しないのだ。
今の正しさに居着くことは愚かである。
誰もが、今手元にある正しさを自分から捨て去らない限り、環境との関係性において自分がどんどん古びていく。
種々の技術開発や研究論文が日夜更新されていくことを例に挙げるまでもない。
強いて正しさにこだわるなら、より高次の正しさを求め続けることが成長であり、時を先取りすることであり、取り得る安全な道筋である。
正しさは隠れ蓑
自ら公明正大であろうとする心のあり方は美しい。
だが、正しさそのものが人間にとっての喜びではない。
正しくあれと矢印を人に向けた瞬間、争いの種をまくことになる。
コミュニケーションにおいて、自分の正しさを前面に押し出す人間は、自らを守ろうとしているに過ぎない。
あるいは、人を攻撃するための武器として正しさを笠に着る。
正しさを使わないと状況をコントロールできない程度にヒューマンスキルが低いことの証左だ。
例えば、人の感情を無視して正論を展開する場合などがそうだ。
思い当たる節はないだろうか?
過去、何かあると正しさの刃ですぐに人を斬っていた阿呆の私は、人斬り抜刀斎と言われていた。
不名誉な話だ。
そんな対応をされて、嬉しい人間などいないのに。
相手に後ろめたい気持ちがある場合など特にそうだ。
正しさを振りかざされては立つ瀬がない。
所詮、自分の正しさを表現することは相手の否定でしかない。
否定からは何も生まれない。
本当の正しさとは何か?
自分の意見が正しいことを主張して、相手を打ち負かしたら、何が生まれるだろうか?
Win -Loseの状況で敗者に残るのは怨恨だ。
それはあなたが望むことだろうか?
相手を倒しても、多くの場合、得たいものは得られない。
むしろ、その逆の状況に陥ることになる。
正しいとは、道理にかなっていることだ。
あなたが得たいのは、物事の前進でろう。
そう思いたい。
もし、物事を前進させることができないなら、その人はその場において有効に機能しているとは言えない。
従って、その場における本当の正しさとは、どのような状況であれ、あなたが有効に機能するように振る舞うことではないだろうか。
自分にとっての正しさなど、どうでも良いのだ。
相手にとっての正しさを使うことが、その場の正しさとしての一般解だ。
相手がどんなにバカに見えても。
相手の正しさへの理解を示さない限り、相手が動くことはない。
人は、時と処と相手によらず、無私の心と大局眼が常に問われているのだ。