辛い出来事は天からのお知らせ
40代以上の方には、お馴染みのドリフのコントがある。
天から降ってくるタライがだんだん大きくなる定番のコント。
コントではないが、実は人生も似たようなものではないだろうか。
タライが小さいうちに気づかないと、落ちてくるタライがどんどん大きくなる。
最初のうちは、ちょっとした違和感から始まる。
違和感を放置していると、嫌な出来事が起きる。
嫌な出来事を放置したり、他責にしたり、逃げたりすると、今度は悲惨な出来事に遭う。
例えば、心に怒りを抱えている人のケースを考えてみよう。
ある日、ふとしたすれ違いを感じる。
コミュニケーションミスで、その人と衝突する。
その人や周囲から攻撃されるようになる。
恨まれて殺される。
あるいは、悩んだ末に自殺する。
最後の方は極端に聞こえるかもしれないが、いじめ問題など含め、世の中ではままあることである。
内面的に、自己嫌悪 →自己否定 →自己処罰のようにプロセスが進んでいるのだ。
ここで大事なことは、小難が大難になっていくのであって、いきなり酷い目に遭うわけではないことだ。
ハインリッヒの法則よろしく、ヘビーな事態に陥る前に、かなりの数のお知らせをスルーしてきたはずである。
思い当たる節はないだろうか?
ちなみに、何の罪もない子どもが殺されたり、先天的な病気を抱えて生まれてくる子どもはどうなんだ?と思うかもしれない。
ある筋で聞いた話だが、それは多くの場合、親への天罰だそうだ。
ここでは、その話は脇に置いておこう。
ところで、ラマとはチベット仏教の高僧のことである。
雑駁に菩薩道を歩む者と解釈すると、仏道を志す者は皆、タライ・ラマである。
落ちてくるタライを見て、己の修行の階梯が進んでいるのかが判断できる。
ある日、自分の頭に今まで落ちてきていたタライが落ちてくることがなくなれば、1面クリアである。
ネーミングはどうでも良いが、辛い出来事に遭遇するたびに、それはドリフのタライであることを思い出してほしい。
もし、クリアできなかった場合
「次行ってみよー」
ということで来世に繰越である。
数百年後
「8時だよ全員集合!」
との声がかかって、またあなたはこの世に産声を上げる。
その人生で降ってくるタライは、過去生で処理できなかったツケである。
いわゆる、カルマだ。
今回もこの世に生まれてきているからには、私たちは皆、債務超過に陥っているのかもしれない。
何はともあれ、コツコツ返済するしかないのだから、日々、タライの大きさの変化をよく観察しよう。
タライの大きさは、ある意味であなたの成績表なのだから。
人生は修行なのか?
仏教的世界観に基づけば、人生は苦行である。
暗い話だ。
世界中のどの宗教を見てみたところで、底抜けに明るいものなどない。
そんなパッパラパーな教義のもとに、悩む人々は集まらないだろう。
宗教はブランドイメージとして暗くないと、きっと売れないのだ。
神道に足場を置けば、「汚いから洗って」ということになるし、キリスト教は生まれつき罪を背負っているなんて、やるせない話が前提だし、どれもこれも根暗感がある。
強いて比較的明るい例を挙げれば、ギリシャ神話は明るめかもしれない。
とはいえ、大変不敬だが、あのような人間臭いパープリンの神々に弄ばれるのは避けたい。
何が言いたいのかというと、宗教なんぞもう要らんと思うのだ。
因果応報。
原因があるから結果がある。
愚かな行いをしたからタライが落ちてくる。
それを見過ごすからタライが大きくなる。
それだけ知っていれば、宗教なんぞ要るだろうか?
単に自分の本心・良心に基づいて人格を磨いていくだけで十分なのではないのか。
自他ともに喜べるようなことをする。
自らの命の来歴を知る。
生かされある環境にまつろった生き方をする。
どのようなことであれ、基礎がしっかりしていれば、ブレはしない。
つまらんエゴにかまけるから、タライが大きくなって、しまいには一斗缶まで落ちてくる。
道を外さず、人も自分も心底楽しめる生き方をしていくだけで十分。
今回の人生のために生前あなたが描いてきた青写真は、それでこそ達成されるのではないだろうか。