記録に残らないから良いものを敢えて文字として残す事は如何なものかと思いつつ、皆で何を考察したのか、その足跡をたどることができるようにするためにここに記すものとする。
アーバンエンライトメントとは何か?
その定義を語る前に、悟りとは何かを言葉で定義することは、敢えて避けたいと思う。
なぜなら、言葉にしてしまった時点で実態を捉えられないし、「何か違うよね」といった違和感を持つものにならざるを得ないから。
河口慧海の時代からアーバンエンライトメント的な考え方は存在した。
『在家仏教』
遠い記憶では、出家してもろくな坊さんいないから在家で修行しようといった趣旨だったように思う。
雑駁過ぎるが。。。
ともあれ、日常生活の中で悟り的なものを目指そうということだ。
出家と在家
現代において出家と在家を分けることにあまり意味を見いだせない。
K氏はスタジオに住んでいるから、寺の宿坊に住んでいることと大差ない。
さりながら、都会で生業を営んでいる。
そのようなライフスタイルの人は少なくない。
つまり、出家と在家という区別はつけづらい。
アーバンかルーラルか
環境要因の区別として、アーバンかルーラルかというのは意味があると思う。
ヴィパッサナーの10日間プログラムのようなものがルーラル。
ここでは、単に田舎という意味ではない。
ノイズの少ない環境に身を置くこと。
悟り的なものを得ようとすれば、ルーラルの方が難易度は低いだろう。
アーバンな生活者にとってのハプニングを引き起こすためにとても良いと思う。
しかし、我々の生活の軸足はあくまでもアーバンにある。
最初からルーラルオンリーを志向すると、失礼な言い方だが、専門バカになるし、実社会における使えない人になってしまうきらいがある。
それでは、大乗仏教の精神に反するのではないか?
衆生無辺誓願度
衆生はどこにいるのかといえば、大多数はアーバンにいるのだから。
ちなみに、私は大乗でも小乗でもない。
勝手に中乗と称している。
これは機を改めて記述したい。
方法論の必要性
実は、方法論を語っても仕方ないのだが、そこから入るしかない。
形を作って入り口を設けないと、人はそれをとらまえることができないから。
しかしながら、入り口が存在している同一平面から出る必要がある。
名人伝
あるいは、2次元から入ったけど、出口は3次元にあるようなイメージ。
そのようなシフトが難しいから、人類はよってたかって2600年も苦労してきているのだと思う。
入鄽垂手
スマナサーラさんの修行してきた背景は小乗だけど、振る舞いは大乗。
十牛図に照らして考えると、理想的なプロセスを体現されているのかも。
入鄽垂手とは、つまり、アーバンに帰ってくること。
アーバンで通用する人間であることが必要。
共通言語がなかったら伝わらないしね。