教育は必要な人には届かない
客観的に見て、その情報が必要だなと感じる人ほど、その情報を求めていなかったり、耳が閉じていたり場合によっては拒絶したりする。
逆に「あなたはもう充分だろう」と思う人ほど、情報を求めたり深めたりする行動を主体的にとるものである。
人は、往々にしてそのようなものだ。
人間の私ですらそう思うのだから、神仏から見れば常々かねがね長年にわたってそう思ってきているのだろう。
笑えるような笑えないような。。。
知性のクリティカルエイジ
広い意味での教育関連産業に携わる人たちと情報交換していると、大人になってから学びに関する基本的な行動特性が変わる事はないというのが結論のようだ。
よく言われる、2:6:2に分かれる真ん中の6の人に対して、システマチックにスキル教育を施すシステムは存在するが、知性そのものの向上まで図ることはできず、ましてや、下の2割の人はどうにもならない。
上の2割は、ロバート・キーガンが言うところの「自己主導型知性」以上の知性を備えている。
社会や組織を良くしていこうと思うなら最下層にはタッチしてはならないのだが、なんとかして、正規分布のピークを右側に移動させる方法はないのか?
上の2割に属することができている人とそうでない人の違いは、一体どこで生まれるのか?
自己肯定感や地頭といったところが極めて大きな影響与えているであろう事はおそらく間違いない。
そう考えると、幼少期の教育に概ね原因がありそうである。
教育の鶏卵問題
未就学児童の教育は幼稚園や保育園もあるが、基本的には家庭に委ねられている。
家庭での教育がどのような内容であるかによって子供の将来が左右される事は論を俟たない。
つまり、当たり前の結論であるが、子供の人生がどうなるかの責任の大半は親に所在する。
であるならば、親がきちんと教育について学ぶ必要がある。
しかし、少なくとも自己主導型知性を身に着けていない限り、教育について体系的に学ぶとは考えにくい。
そのような親に育てられた子供は、やはり自己主導型知性は身に着けていない。
鶏卵である。
ホームスクーリング
構造的な問題の解決は非常に難しい。
しかしながら、今から着手しなければ、いつまでたっても状況は変わらない。
公教育の教師の質が極めて低いことは機を改めて論じるとして、まずは、多感な時期に質の低い教育を受けさせる愚を避ける意味で、ホームスクーリングを浸透させる事は価値が高いだろう。
ターゲットとして、時間や経済が自由になり、かつ、教育についての見識がある層にアプローチする。
ある意味、超長期目線での社会実験と思って取り組んでみたい。
実験などと言ってはけしからんと思われるかもしれないが、画一的人間の大量生産工場たる現在の公教育に子供を通わせるよりも、遥かにマシだと確信している。
日本でのホームスクーリングの位置づけや状況に関する考察は別の機会に行いたい。