記録に残らないから良いものを敢えて文字として残す事は如何なものかと思いつつ、皆で何を考察したのか、その足跡をたどることができるようにするためにここに記すものとする。
パラレルワールド
私はパラレルワールドは存在すると思っている。
ただ、それは物理的に異なる似たような現実が展開されている空間という意味では捉えていない。
同じ時空に存在するが、人それぞれに認識が異なることを以てパラレルワールドであると捉えている。
同じ物を観察しても、認識することが人それぞれ異なるのだから、各人がパラレルワールドに存在すると言っても差し支えないのではないか。
「宇宙」「地球」「日本」といった大きな枠組みを表す概念に対して、人口の数だけ異なる認識やイメージが存在する。
友達と歩きながら野良猫を見たとして、「黒猫だ」とか猫の種類については同じ認識を持つだろうが、「かわいい」「汚い」「縁起悪い」など各人異なる認識をする確率が高い。
つまり、人の数だけパラレルワールドは存在し、それは取りも直さず物事の認識の仕方と同値だ。
外に出る必要性
悟り的なものを得ようとか、成長しようとか、自分の世界を変えようと思ったら外の世界に身を置いてみる必要がある。
なぜなら、今自分が存在している世界を認識するためには、そこから出なければ認識できないからだ。
2次元に存在していたとしたら、3次元を認識できない。
しかし、3次元にいる存在からすると2次元のことは手に取るように分る。
四門出遊。
英雄の旅も同じことだ。
十牛図でも結局元の世界に返ってくる。
観自在
どのような世界にでも存在できる、つまり、どのようなことでもきちんと認識できることを仏教では観自在というのだろう。
狭い世界に認識が固着していない状態。
人はどうしても重いものを掴んでしまう。
慣れ親しんだ概念や物に執着してしまうがゆえに、軽妙な世界にシフトできない。
日頃人が意識を向けない物は氣が枯れる。
不要物が多い空間は穢れ(氣枯れ)る。
穢れが手枷足枷となって、その世界に自分を縛り付ける。
そして、その世界へのリアリティが日増しに高まり、そこにホメオスタシスが働くようになっていく。
このような呪縛から自由な状態を観自在と呼ぶのではないか。
修行とは認識の断捨離のプロセスと言うことができるだろう。
意図を手放す
使い古された文脈だが、意図を放ったらそれを手放すこと。
願望を持っている状態からどこに進みたいのかというと、願望を持っていない状態にシフトしたいはず。
であるならば、当初の意図をいつまでも握りしめていては、新しい世界に行くことはできない。
観光地に行きながら、仕事のことばかり考えていたら、見どころを見落としたり十分楽しめなかったりするようなものか。
尋牛から忘牛存人に行くわけで、いつまでも求め続けていては、求めた世界に辿り着けない。