記録に残らないから良いものを敢えて文字として残す事は如何なものかと思いつつ、皆で何を考察したのか、その足跡をたどることができるようにするためにここに記すものとする。
休憩の必要性
修行に休憩は必要か?
結論としては、「状態による」。
休憩が必要な状態なら、それは修行の段階が浅いとでも言うべきか。
努力や積み重ねは必要。
だが、それは方便。
悟り的なものは、努力のみで達成するものではない。
修行が意図的な行為ではなく、自然な行為そのものになっている必要があるのだと思う。
よく引き合いに出される名人伝。
一生懸命練習をするというフェーズではなく、自然と弓を扱っている状態こそが修行。
そのような状態であれば、殊更に休憩を取る必要はない。
特にしんどいことでもなく、自然な行為なので、休憩が必要な状態に陥ること自体がない。
よい加減
真剣さは必要だが、ガチでマジになってしまっているのはちょっと違うと思う。
もちろん、囚われたり手放したりを繰り返す中で絶妙なバランスポイントのようなものを見出す必要がある。
振り子が行ったり来たりするように。
その繰り返しの中でしか、掴めないことだとは思う。
いきなりスイートスポットを叩くことは多くの場合できない。
漸悟と頓悟の違い。
行為と状態
目に見える行為と目に見えない状態を分けて捉える必要がある。
行為は同じように見えても状態は決定的に違うということはよくある。
釈迦が菩提樹の下で悟ったという伝説があるが、その時、彼はイバラの上で瞑想をするような精神状態ではなかったはず。
外から見ればやっていることは同じだ。
しかし、中身はまるで違う。
氷山に例えるなら、水面上が行為で、水面下が状態。
調律
釈迦は弟子に「怠けるな」と言っていたそうな。
ギターの弦のようなものか。
張りすぎると切れてしまう。
緩めすぎると音が出ない。
絶妙な張り具合。
釈迦は張りすぎて弦が切れそうになっていたところ、菩提樹の下で少し緩めてみたらちょうどいい音がしたのかもしれない。
人生はチューニングだ。
良いチューニングで過ごすことが修行であり道なのだろう。
どんな楽器も普通に演奏していれば必ずチューニングが狂ってくる。
折に触れてチューニングをすることは不可避。
共振
自分がよい加減のチューニングで過ごすことが、この世界から求められていることなのだろう。
釈迦が大毘盧遮那仏に請われたように。
自灯明や自法灯という言い方にもそれが表れているように思う。
自分に仏法が灯っていることが、衆生にも火をつける。
音叉の共振。
自分の楽器
気持ち良いセッションをするには、チューニングや演奏技術が必要。
だから練習や努力のように見える行為は必要。
そして、みんな違う楽器を持っている。
他人の楽器を練習しなくていい。
あれもこれもやる必要はない。
自己肯定感が高いことは、修行のハードルを下げてくれるように思う。