以下、達磨大師と中国の梁の皇帝武帝との問答
武帝「国教を仏教に改宗して人々にこれを奨励し、多くの寺院を建立し沢山の僧を養っているが、この功徳はいかに」
達磨大師「無功徳」
武帝「しからば仏教の最高境地とは」
達磨大師「廓然無聖」
無功徳とは、どんなに善いことを重ねても、見返りや報酬を期待しているようでは、それは徳とはいえないし、徳は善行そのものの中にただ存在するだけだ、ということをいっている。
わかりやすくいえば、喜びは喜ぶ心の中にのみ存在し、悲しみは悲しむ心の中にのみ存在する。
喜怒哀楽その他全ては、自らの心の中にのみ存在し、自らの心の外には何ら存在しない、ということである。
廓然無聖とは、およそ人間が考え出すことができるような価値観・法律・規則・制度などは、どれをとっても不完全なものばかりであり、そのような中途半端な類は天上界には一切存在しない。
加えて、天上界は光一元・愛一元の世界であり、聖なるもの悪なるものといった二元世界の区別そのものも、もとより存在しない。
これを空に例えれば、雲一点ないどこまでも澄み切った青空のようなものだという意味である。
(この対話は、少林寺の作り話だとする説があるが、実話である)