前略 みなさま
人は皆、何かにつけて、やれ幸せだ、やれ不幸だ、と言いますが、それでは何を持って幸せと感じ、何を持って不幸と感じているのかというと、かなりあやふやなものがあり、即座に明快な答えを出せるような人は少ないようです。
それが証拠に、皆さんも明快に答えられないはずです。
何故なら、もし一度でも真剣に考えたことがあれば、皆さんは今頃全員哲学者になっていたはずだからです。
というのはジョウダンデスが、一般的には、幸せを感じている時にはどうして自分は幸せなのだろうと深く考える人などまずいませんし、一方、自分は不幸だ不幸だと思っている人ほど、その大元の原因を突き止めたことがないからこそ、いつまでたっても自分は不幸だと思い続けなければならないわけですから、そういった観点から言うと、真剣に考えたことがないというよりも、皆さん自ら進んで考えることを放棄している、と言ったほうがより正確かも知れません。
もし少しでも真剣に考えたことがあるなら、幸・不幸は心の持ちようによって大きく左右されるということに気づいていたはずですし、真剣に考えたことがないからこそ、不幸の原因を他人や社会のせいにしたまま、いつまでたっても不幸だと思い続けなければならないのです。
一般的には、人は欲しいものが手に入ったりやりたいことが出来た時には幸せと感じ、その逆に何かを失ったり思うようにならない時には不幸だと感じる傾向にありますが、それでは望みがかなった時には本当に幸せで、その逆なら本当に不幸なのかというと、必ずしもそうとは言えないのです。
どういうことかと言うと、人が感じる幸・不幸の大半が、何かしらの絶対的な基準に基づいたものなどではなく、周囲との比較や状況の変化に合わせてコロコロ変わる心の気まぐれの産物だということです。
こうしたことを検証するには色んな方法がありますが、例えば、衣・食・住のうちの食を例に挙げると、美味しいものを食べたことがないうちは、普段の食事で満足していたが、一旦美味しいものを食べてしまったあとは、普段の食事が何か味気ないような気がして、美味しいものを食べられないことに対する不満が残るが、今度は逆に連日連夜美味しいものばかり食べると、食べ慣れた普段の食事が無性に恋しくなる、といった経験をされたことはなかったでしょうか。
どなた様に限らず、一度や二度あるはずです。
これはとりもなおさず、美味しいものを食べたことによって一時は幸せを感じたが、裏を返すと不幸の始まりでもあった、ということであり、いくら美味しいものでも毎日食べ続けると飽きが来て、いつのまにか美味しいものがまずいものに変化した、ということにもなるわけです。
それではどうしてそうなったのかと言うと、美味しいものを食べたことや、美味しいものが存在すること自体が問題なのではなく、心が美味しいものを食べることが出来た時と出来なかった時を比較して、幸・不幸を感じさせたことと、美味しいものを毎日食べ続けると一転してまずいものになる、と心が判断したからそうなったのです。
ついでに、食に関してもう一例紹介すると、戦中・戦後の食うや食わずの時代には、どんなものでも腹一杯食べられさえすればそれで幸せだったが、今の若い女の子の場合、スタイルを気にして、いかに食べないで痩せていられるかが幸せなのです。
今の時代、食べたければいくらでも食べられるのに、食べると太るから食べないし、食べるということ自体が、彼女達の痩せたいという願望に対する一種の敵性行為になっているわけです。
一昔前までは食べることが幸せであったが、現代は食べることが不幸に繋がると考えている人が出現したということです。
たった半世紀で、変われば変わるものです。
以上から、同じ食べるということひとつとっても、心の持ちよういかんでは、幸せにも不幸にもどちらにでも変化するし、心がどちらかを判断する際における絶対的な基準となるものなど何も無く、周囲との比較や状況の変化に合わせて心が気まぐれで判断しているだけなのである、といったことがおわかりになられたかと思います。
昔から「人間万事塞翁が馬」と言われるが如く、何が幸せで何が不幸かは、ずーっと後になってみないとわからないし、また起こってしまったことを変えるわけにはいかないが、何事も心の持ちようひとつで、良くも悪くもどちらにでも変化させることが出来るということです。
卑近な例を挙げると、もし仮に1000万円持っていた人が、何かに失敗して十分の一の100万円になったとしても、もし損したことばかり考えていると、ずーっと不幸を引きずってしまうことになるが、反対に100万円だけでも残ったのは不幸中の幸いであり、色々勉強することがあったからかえって良かった、と思うことが出来れば、その後はかなり明るい人生を歩むことが出来るわけです。
人生いついかなる時でも、「ないものを数えると不幸になるが、あるものを数えると幸せになる」 という好例です。
また、人は何かをなくした時、例えば、仕事をなくした、病気になった、恋人にふられた、家族を失った、財産をなくした、などといった時、ほとんどの方は嘆いたり悲しんだりするだけで終わってしまいますが、「捨てる神あれば拾う神あり」の如く、この世では何かをなくした時には必ずそれ以上のものを得ている、という事実に早く気づくべきです。
ただし、そうしたものの多くが目には見えない「教訓」と呼ばれるものであるため、本人がその気にならない限り、気づくのは容易でありませんが、もし気づくことさえ出来れば、不幸は一転して幸せの種となり、またその人の魂は大きな進化をはたすことになります。
それから、皆さんの中には、今そこにある現実に対して、不幸だと感じたり、様々な不平や不満を持っておられる方もいらっしゃるかと思います。
がしかし、そうした現実が皆さんの学びのために必要だから今そこにある、ということをよく理解して下さい。
皆さんが今生活しておられるところこそが、かつてあの世で皆さんご自身が自分の学びのために選ばれた特別の場所であり、大勢のソウルメイトやご縁のある魂が沢山いらっしゃるところなのです。
たとえそこが雨水の滴るあばら家であろうが、明日にも潰れそうな零細企業であろうが、死を待つばかりの病院の中であろうが、そこで学ぶべきことがあるからこそ、皆さんは今そこにいらっしゃるのです。
ですから、どこか遠くで何かをしなければならないということはありませんし、その場所でこそ愛の実践をすべきなのです。
そうした愛の実践の中にこそ、皆さんが追い求めてやまない真の幸せが潜んでいます。
そして、愛は求めるものではなく、ただひたすら与え続けるものであるということもよく理解して下さい。
愛は与え続けることによって初めて、自身が神の愛にすっぽりと包まれます。
与え続けない限りは、いつまでたっても神の大きな愛はやってきません。
それから、最近色んな情報を拝見していると、時代を反映して、光明体験をされたり神との一体感を感じられたりしている方が急増しているようです。
大変結構なことですが、一方ではそうしたことは所詮千里の道の一里塚でしかないということを、しっかりと認識しておく必要があります。
全ては神であり、神とは愛である、ということを理解することも大切ですが、それよりも今そこにある現実の中で、いかに愛を実践することが出来るかが、はるかに重要なのです。
目先の幸・不幸や神秘体験などの「雑魚に惑わされて大魚を逃す」ことがあってはいけません。
どうかこうしたことをよく理解され、今なすべきことをなさって下さい。
よろしくお願いいたします。
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