記録に残らないから良いものを敢えて文字として残す事は如何なものかと思いつつ、皆で何を考察したのか、その足跡をたどることができるようにするためにここに記すものとする。
人の振る舞いとエントロピー
エントロピーは、そもそも熱力学の概念ではあるが、物事の秩序や概念的なものに敷衍して用いてみたい。
私利私欲、無責任、正当化といった振る舞いは、エントロピーを増大させる。
貢献、高い責任性、高潔さといった振る舞いは、エントロピーを減少させる。
このように置いたときに、ある意味では悟りを得る事は個人のレベルでエントロピーを増大させることがなくなったと言っても良いだろう。
そして、他人が生み出したエントロピーを減少させることに貢献するようになると言うこともできると思う。
この星の系全体のエントロピー
見える世界は見えない世界の結果である。
斎藤幸平さんの『人新世の資本論』ではないが、 地球環境が限界が来ている事は、それだけ目に見えない世界の汚染や破壊、毀損といったものを人類が長年にわたってし続けた結果である。
都市生活者である以上、 自分で食料生産をしているわけでもなく、川から水を汲んできているわけでもないし、下水処理も他人任せで、電気やガスも使い放題なわけで、偉そうな事は言えないのであるが、 社会全体として人間が生きていくために必要な全てを与えてくれている地球さんに対して多少なりとも思いやりと感謝があれば、今のような産業構造や社会システムを作り出す事はなかったように思う。
当然に閉鎖系の中で循環構造を作らなければならないのに、現生人類は揃いも揃って開放系の中で自分のケツを最終的に地球さんに拭かせてきた。
人口構造と我が国の高齢者層の意識
WGIPによって精神汚染されながら幼少期を過ごした方々が、この国を破壊するための工作員的な動きをしてしまう事はある意味当たり前かもしれない。
今更、それに気づいてどのように後世にバトンを渡すべきかに多少は思いを馳せてもらいたいと言っても手遅れではあるだろう。
真剣に何かを目指してきた方々は、次世代にバトンを渡すことについても真剣に考える。
しかしながら、我欲のみに生きてきた人間は、せいぜい遺産相続をどうするか位しか考えない。
それすらもおろそかにして、子世代の生活よりも、つまらないプライドを守ったり、自分自身が死ぬまで快適に楽しく過ごせる過ごせればそれでいいという考え方を持ったりしている老人すら少なくない。
大昔からそのような人間がマジョリティーであること自体は変わらないのかもしれないが、早晩この星から退場願いたいものである。
血の入れ替えをしない限り、認識のマジョリティは変わらないから。
天動説が地動説に変わったのも、ガリレオ以降、教会の権力層たる老人が消えたからであるという研究があるらしい。
話が脇に逸れたが、 この国の有権者および政治家は、老人がボリュームゾーンであるがゆえに政治家はそこにおもねり、老人主体の利権構造が構築されている。
老人方を非難しても何も起きないので、我々世代として何をするべきか。
親世代のケツ拭きなど、介護だけで十分であり、勘弁願いたいが、気づいてしまった事はやらねばなるまい。
何はともあれ、ひたすら掃除
自分自身の過去生を含め、連綿とこの星全体のエントロピーを増大させてきたことは恐らく間違いなさそうに思う。
自分で汚したものくらい、自分で片付けをするのは当然である。
また、自分の親が散らかしたものを子が片付けることになる例は歴史上枚挙にいとまがない。
はたまた、エンライトメントというポイントを通過した者であれば、自分のケツ拭きのみならず他人のケツ拭きまでするのは自然な流れなのかもしれない。
もちろん、私は悟りを得たなどと言うつもりは毛頭ない。
気分のいいものではないが、大人であれば他人のケツ拭きもしなければならない時もあるだろう。
むしろ、どうせやるなら、もっと広い枠組みでやってやろうじゃないかという心意気で日々修行に励みたい。
菩薩道
悟りを得て、この星に残るのか卒業するのかは本人の判断に委ねられるのではないか。
しかし、アセンデッドマスターのように卒業したけれども使役されるケースもある。
釈迦は悟りを得たとき、それを人に教えるのは難しいと思い、人に伝えることをためらったそうだが、毘盧遮那仏に請われて伝えることにしたそうな。
死してすら使われるなら、生きてるうちにコキ使われる要素を排除しておくことには一考の余地があるだろう。
仏壇に手を合わせて既に亡くなられているご先祖に何を願っても、お小遣い1つくれるわけではないのに、人間は神や仏すら御用聞きや便利屋のように扱うから気持ちよくはないのだが。
彼らを衆人環視の相手として扱うのはアリだと思うけどね。
がんばるから見守っていてくださいとコミットする対象として扱うのは健全。
話を戻して、自分で選んでそのような世界を作り出してそこで遊んでいるのだとしたら、それはそれで感謝しかないのだが、我ながらけったいなものを作るものである。
この辺りに、小乗仏教と大乗仏教の接点があるように思う。